人気ブログランキング |

タグ:高橋山風 ( 6 ) タグの人気記事   

詩「鉱毒」(1)   

 うかつにも高橋山風の詩「鉱毒」がつくられた年月をきちんと確認していませんでした。気になって資料をひっくり返してみたら1900(明33)年の《1月》だというのです。
 足尾の鉱毒問題に関心のある方ならこの1900(明33)年の1月が沿岸住民が鉱毒被害を訴えるために行なった東京への第三回押し出しの直前の時期だと言うことに気づかれることと思います。
 そういう意味でもこの「鉱毒」という詩――130行にも及ぶ長詩です――は、もっともっと注目されてよいものだと思います。あらためて「第三回押し出し」「川俣事件」の検証をするためにも一級の資料の意味ももっているものと考えます。

 長い詩なので、二回にわけて掲載します。初出の『東京評論』の原文を今、確認できないので『足尾鉱毒惨状画報』(青年同志鉱毒調査会/1901.3)に再掲されたものを、さらに復刻した『足尾鉱毒亡国の惨状』(現代ジャーナリズム出版会/1977.10)掲載のものをもとにしましたが、私の判断でいくつか手を加えてあります。
 細かな点は措くとしても、この形ではルビがふれないのが致命的なのですが、この点はご諒解をいただきたいと思います。〔追記:部分的に照合できた限りでも『足尾鉱毒惨状画報』の形が、例えばルビのふりかたでも、『足尾鉱毒亡国の惨状』できちんと復刻されていないのが残念です。定稿の確定には、どうしても『東京評論』に遡る必要がありそうです。『東京評論』の原文を確認できた時点で、校訂した本文とともに書誌的なことがらも書き直したいと考えています。

(書誌的なことがらをもっとていねいに書きたいのですが長くなるのでここでは省きます。作者の高橋山風についてはあらためて少しは紹介できるかと思いますし、ぜひその機会をもちたいと思っています。)

〔追記:2012.10.14〕
 この詩の発表年次については、ある資料の記述を総合して私が想定したものですが、“世紀新まるも今日は明日の/昨日に過ぎず”の句が気になって、『東京評論』の書誌データを調べてみました。確とした資料は手元にないのですが、『東京評論』の第一号の発行は、1900(明33)の10月のようです。とすれば、この詩の『東京評論』掲載が1900年1月ということはありえません。きちんと調べがつくまで、判断は保留にしますが、“哀願の群集に交りてし/わが父は捕縛の身となれる、現”という詩句からしても、川俣事件の後に書かれたものと考えるのがよさそうです。
 いずれにせよ、『東京評論』にあたってみたいと思っています。

by kaguragawa | 2012-10-12 22:38 | Trackback | Comments(0)

詩「鉱毒」(2)   

「鉱毒」
                  高橋山風

いまはとて捨てゝ行くなり
住み慣れし懐かしのふる里を
顧みがちに、顧み勝ちに
人目も草も枯れ果てゝ
一歩に涙 五歩に血の
道はたゞみる渦捲く鉱烟の地

祖先が伝へし鄙歌の
この地に絶えて茲に十年
五風十雨の天の恵みも
人の情も荒れ果てし田畑山林
荒廃の里や幾里
聖代の栄えも知らぬ野人は数十万

わが祖父の墳墓既に塵に埋れて
住居の垣も軒も傾く、夢
哀願の群集に交りてし
わが父は捕縛の身となれる、現
乳なき妻は物狂
飢死し嬰児の魂や何処

迷ひゆき狂ひゆきてし人に後れて
吾は今、惆悵として、遅々として
われを産み、われを育みし、懐かしの
ふる里に別れゆくなり
満目寂として宛らに常闇の冥界の如なる
ふる里に別れゆくなり

村を挙りて他し国へ
流離の人となりし友等も
住みなれし生れ故郷を去らむ悲哀
わが如や、手の舞ひ足の踏む術も無く
さこそは悶え苦しみけめよ

荒村よさらば
廃屋よさらば
さらばさらばと見返れば
行方は河添十数里
毒水寒く波を打つて人影も無き堤際
遊び歩きし童べの
忍ばるゝかな往にし面影

袂を払えば野禽血に咽び
裾かゝぐれば喪狗纏はる
ゆきがてに、たゝづみつゝも、哭きつゝも
指すや都の巷は遥か
杳々として雲もさまよふ無限の憂愁

請ふ、言問はむ都人
かの天然を征服して余りに傲れる文明の進歩
鬼の業か魔の業かわれ知らず
奢侈はこゝに満ち、競争はこゝに踊り
貧しきは泣く間、など富みたるは益々富めるは奈何

行く手里道を夾みまた県道に衝り
をとこをみなを基として
親子同胞麗はしくも
団欒せし小いさき社会は交々滅びて
可憐や、代々杵築あげてし村里の
美は壊たれぬ到る処

眼をめぐらせば山おろし
吹き来る方の一の人集や
朝宵鉱穴に務むる鉱夫等も
危き器械を握りつめては絶間なく
想ひは家族が上に走らむを

泰西の世にきく争闘の
かの利に敏き鉱主 あひ手どりては屡々も
労力の酬ひ貧しきを憤るとふを
さてしもあらぬ幸ありや
ありやあらずや他は知らじ

たださりげなき青山の下
平野の農夫を軽むじて
雨降り積る鉱山のあなた
うづまく鉱烟陰々朦々の裡
職務忙しき朝よひを
涙もおぼえず送れるや否

by kaguragawa | 2012-10-12 22:37 | Trackback | Comments(0)

詩「鉱毒」(3)   

さらにも問はまほしきは四方の国人
おほくの世間も傍観のみして
集る教の堂塔の間
経文、香華もうはの空なる鐘の声
形式のみなる礼拝祈祷に
われ等が哭声聴き流さむとや

近つ代の政策 人の道を蔑して
英はさいなむ南阿人
米は虐ぐ太平洋上の土民
虚喝を事とす宗教家
虚栄を夢む哲学者
万国東大陸に罪悪を重ぬるも
これを掩へる詩人の虚句と画家の愚筆

人種の別ち無き世来らむと
そは類まれなるプラトンのたゞ美はしき夢なる歟
黄白相互に相凌ぐ今
優者の凱歌は劣者の悲調
大いなる悲劇演ずる東陸西陸を
まのあたりにも見聞くが如く
良民日毎離れ離れ、ああ散り散りに
行くを、走るを、倒るゝを見捨てたりな

世紀新まるも今日は明日の
昨日に過ぎず、限りなき空間
うつりゆく時間よ汝
いつの日にかは光明の
偉霊の壮美と個人の幸福もたらし来る
繰り返しまた繰り返す歴史の頁の
待ちあぐむまで数あるかな

迫害と、絶望と、落胆と
あゝ同情者なきわが儕輩
哭せざらむや、狂せざらむや
誠心籠めし老の一図に
さぶき牢獄につながるゝ身を
思へば他まで咀ふも浅間し或時は

われも窶れし身の影を
ゆくや流るゝ河水に写せばうつる物思ひ
さしも昔は清ふして里娘等が白布晒せし
流は絶えて魚も住まず
岸辺離離たる断草に破れて残る漁舟の骨
枯木を鳴して過ぐる風は白し

これも浮世の塵塚に
捨てし真鍬の柄は朽ち砕けて
祝儀、葬礼、婚礼、さては豊作秋祭りも
調度も是よりわきいでし
小作男が負ひけむ籠の半土の化りしに隣る

天も哀む愁雲の陣々もして
千里の悲風北山の霰吹き捲く声の波
鉱烟の波落し来て
こゝに道無し、光なくなく曇りし眼閉じて歩めば
ゆくへも知らず現世の理想も消ゆとこそ思へ

いまはとてすてゝ行くなり、顧みがちに
住み慣れし懐かしのふる里を、憫れなる小さき身
偉霊よ、汝の意志の顕現の
おぼろかならぬ証しには
とくも正しき人々の
声伝えてよ人々の、胸裡へ耳底へ

親同胞に離れ友に別れし独身の
あゆみ悩みて眺めいるや田圃の風物
情なき身やわが心 木にもあらず
涙なき世かひと心 石にもあらじ
大声挙ぐれば億万里外の天もこそ聞け
憂身を赤土に投げて燃ゆる真心

by kaguragawa | 2012-10-12 22:36 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (4)   

 この項を、「三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》」の続きとして書こうか、「霜川「昔の女」をエッセイとして読む」の続きとして書こうか迷ったのですが、対象としている事項の比重の大きさから「《本郷六丁目九番地 奥長屋》」の続稿とします。
 昨年9月に《本郷六丁目九番地 奥長屋》の項を書いた後で、この路地が以前から不思議なゾーンとしていくつかのwebサイトで、紹介されているのを発見したのですが、東大赤門前にこんな!という驚きは、この路地を知った人の共通するもののようです。


 霜川は、この《本郷六丁目九番地 奥長屋》について、高橋山風宛ての書簡でこう書いていました。

 “生は本日を以て長屋居住を決行致し申し候。長屋と申しても最も劣等なる種類にこれ有り。其は鮫が橋に見られる穢屋(あいおく)にござ候。屋賃は一個は七十五銭、一個はより上等にて八十五銭、都合二軒にて合計一円六十銭、いかに廉価に候わずや。一個は家族住む。一個は生が書斎にござ候。其れは屋根裏を見て天床を見ず、一棟都合六軒いわゆる九尺二間の屋台骨にござ候。”

 実は、なんとこの当時の霜川の路地暮らしを語る同時代人の資料が存在したのです!。思ってもいないことであり、驚きでした。語るのは斎藤弔花、出典は先日紹介した『国木田独歩と其周囲』です。

 “霜川は紅葉門下とはいうものの、外様で、徳田秋聲に兄事していた一人、偏屈人で、赤門前の裏長屋に住んでいた。本郷の通りにこんな長屋があったことは今の人は知るまい。両側に汚い二間宛の家が五六軒づつの割長屋で、その奥に古い槐(えんじゅ)の大木が風にピューピュー鳴っていた。霜川の家庭は母と妹達は向いに住まわせ、彼は南側の1軒2間を占領していた。彼の家で手洗盥や、歯磨、楊枝はみたことはない。万年床の綿がはみ出している。反古の山の中に座って夜っ徹(ぴ)て何か書いていた。鶏の啼く頃、くるりと万年床に潜り込んで寝る。年中戸締まりをしたことはない。夜遊びに更けて、帰るに家のない連中は、本郷のこの槐長屋の家に泊まり込んだ。”

 弔花の文は、山風宛て霜川の書簡と符合する点の多いことに気づきます。
 霜川が「屋賃〔家賃〕は一個は七十五銭、一個はより上等にて八十五銭、(中略)一個は家族住む。一個は生が書斎にござ候。」と書いているように三島家は、2軒借りていました。1軒は霜川がみずから書斎として使用するための家、もう1軒は家族のためのものです。弔花は、伝聞としてではなく実見によって書いているであろうことが読み取れる文章でこう書いています。「霜川の家庭は母と妹達は向いに住まわせ、彼は南側の1軒2間を占領していた。」 
 併せて読むと、霜川自身は路地に並ぶ割長屋の南側、より上等な家賃八十五銭の家。家族(母と妹たち)は、北側、家賃七十五銭の家に分かれて住んでいた・・・(家賃は逆の可能性がありますが、霜川の書斎で来客もある方が、条件の良い物件だったと考えてよいでしょう。)。
 それにしても弔花さん、霜川が路地の南側(法真寺側)に住んでいたということまで記録に残しておいてくれました。有り難いことです。“窓の下は古墳塁々として塔婆海苔麁朶の如く立つところ、一種の臭気を含む湿気は境に充満致し居り候。”と、霜川が書いたのは、まさしくあの樋口一葉ゆかりの法真寺の墓地のことだったのです。

 e0178600_23524216.jpg
おおよそ半年ほどしか住んでいなかったこの「奥屋敷」のことが、霜川と弔花の文によってパッとスポット照明がついたように鮮明に眼前に現れてきました。それにしても霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》の住まいについてこれほどのことがわかろうとは驚きの限りです。  
 
 いずれにせよ、2012年の現時点で、東大の赤門前にこんな一画がという驚きは、70年の時空を超えて弔花の“本郷の通りにこんな長屋があったことは今の人は知るまい。”という弔花のメッセージにつながっていくから、これまた驚きです。

*写真は、今もこの赤門前路地に残る現役のポンプ式井戸

 実は、うれしいことに、この《本郷六丁目九番地 奥長屋》のことについては、私にとって新知見がここ数ヶ月の間にいくつもいくつも得られたのです。
 続く報告は、この明治34年の事前と事後のことがらになります。
 (続く)

by kaguragawa | 2012-04-19 22:57 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (1)   

 島木健作という作家をご存じだろうか。かく言う私も名前は知っていますが、作品を読んだことはありません。
 が、この「島木健作」がとつぜん、目の前に現われてきました。

 17日に本郷を少し歩いたのですが、実は、文学散歩というようなものではなく、三島霜川の足跡を本郷に探したくて、というよりはなんとかしてその痕跡を一つでも見つけたくて、いくつかの場所に足を運びました。
 まずは、「済生学舎」跡、次に「本郷座」跡、「本郷区本郷6丁目9番地 奥長屋」、最後に「本郷区向ヶ岡弥生町3番地ト11」(ともに旧番地)・・・。それぞれついて、きちんと記しておかなければならないことがあるのですが、ここで少しふれてみたいと思うのは、「本郷区本郷六丁目九番地 奥長屋」(現:文京区本郷5丁目28番地内)です。


 1901(明34)年、三島霜川と徳田秋声は、「本郷区向ヶ岡弥生町3番地ト11」で同居し、霜川は「民声新報」に秋声は「読売新聞」に関わり、ライバル意識をもちながら創作活動を行なうのですが――当時は二人ともまだ文壇に広く知られる存在ではありません――霜川の妹たちもいつしか同居同然となり、二人の同居生活は数か月で解消されます。
 この同居解消後、秋声は前にいた神楽坂近くの下宿に移り、霜川はしばらく近くのおじの家に同宿し、東京帝国大学前の「本郷6丁目9番地」に引っ越していきます。
 この「9番地」での生活も短いものですが、霜川を後世から追いかける私にとってはかなり重い意味をもっています。一つは、なぜかこの地に霜川が本籍を移していること、二つには“霜川と秋声”を考える場合とても大切な意味をもつ書簡をこの地から発信していること、です。本籍の件は、まだまだ確認せねばならぬことが多いので割愛しますが、本郷六丁目九番地発の“高橋山風(高橋隆之祐)宛ての手紙”のことは、すこしずつ書いていきたいと思っています。

 とりあえず今日、ここに紹介しておこうと思ったのは、手紙の内容のことではなく、この「本郷6丁目9番地」そのものに関することがらです。

 この山風宛ての手紙の最後に、霜川はこう書いています。

 “貴兄よ、上京相成らば恐らく御来駕なされ候わんか。貴兄の姿を見る長屋の人々は一個の顕紳の来駕とも見て、眼を側(そばだ)て申すべく候。
 窓の下は古墳塁々として卒塔婆海苔麁朶の如く立つところ、一種の臭気を含む湿気は境に充満し居り候。併して生は此処に清新の詩想を養い且つ雑誌に注ぐ金と精力とを貯える心算に御座候。なお委しくは拝眉の上心肝を吐露すべく候。かくは単(ひとえ)に御訪問の折に、貴兄の吃驚を防がん為にその一端を申し上げたるものに候。生は徹頭徹尾マラーの如き意志を以て文壇に当り申すべく候。(一部略)
 草々頓首 本郷区六丁目九番地奥長屋  三島才二”


 そして霜川は住所の上にこのように追記しています。

 “もし御訪問の折は九番地に入り 奥長屋と聞き下されたく候”

e0178600_23342078.jpg
赤門そばの文字の見える「赤門樋口ビル」と仏教書で知られる“山喜房”のある松岡ビルとの間に、手押しポンプの残るその路地はあった。東大赤門のまん前である。 

 霜川が《奥長屋》と何度も繰り返している「本郷六丁目九番地」がどういうところなのか、実見しようと、今回この地を訪ね、“えっ本郷に、しかも東大の赤門のまん前に、こんな場所が昔の路地の姿のままに残っていたの!?”という驚きに加えて、帰宅してさらに驚いたのは霜川の30年後のこの路地の「奥長屋」に住んだもう一人の作家がいたことです。

 誰あろう、それが最初に紹介した《島木健作》だったのです。

by kaguragawa | 2011-09-20 00:08 | Trackback | Comments(9)

〔高橋山風〕   

 野口存彌さんの『野口雨情――詩と人と時代』(1986.3/未来社)を読んでいて、思わず目が点に。

 そこに、《高橋やま風》の名が!。

by kaguragawa | 2011-08-07 22:23 | Trackback | Comments(0)