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飛鳥寛栗師と三島霜川・正六親子のこと   

 飛鳥寛栗(あすか・かんりつ)師が昨日亡くなられた。享年一〇二。

 15年前、縁あって『それは仏教唱歌から始まった―戦前仏教洋楽事情』(樹心社/1999)を手にして以来、近くて遠い大先達として――師が前住職を務められた善興寺(高岡市中田)は、拙宅から車で20分余の近さ――お名前だけは存じ上げてきましたが、4年前善興寺本堂で「三島霜川を読む」という朗読会があった折に、少しお話をさせていただく機会に恵まれました。
 先月も薩摩の「隠れ念仏」のことを調べる必要があって『越中僧・薩摩開教の記憶』(桂書房/2015)を、読ませていただいて、甑島にも大魯の影響で三業派の隠れ念仏が強かったことを教えていただいたばかりである。

 私の手元には、2.5メートル余もある「三島霜川誕生の地」と書かれた大きな木碑(*)の脇に“二人の男性”が立っている写真がある。一人は、霜川の息子さんの正六さんである。もう一人が誰かわからなかったのだが、つい先日、善興寺の現住職の飛鳥寛惠さんから、「これは父・寛栗です」と教えていただいた。この写真が撮られたのは1970(昭和35)年夏とのことだから、私など霜川の跡追いをしている人間には、大きな意味を持つ写真である。
 寛栗師は、霜川の生地である中田町が高岡市に合併される前の中田町時代に、中田文化会の中心として霜川の顕彰に松田富雄氏とともに尽力され、その地が高岡市となってからも「三島霜川選集刊行会」の副会長を務められたのである。

 そして寛栗師が著された『善興寺史誌』(1964)の資料編「慶應二年惣門徒書上帳」の檀家中に「般若組 下麻生村 間兵衛」の名が見える。これは累代、「間兵衛(間平)医者」と呼ばれた三島家のことであろう。

 なんと昨年百歳で『越中僧・薩摩開教の記憶』を世に出された寛栗師は百壱歳で亡くなられた。今頃、お浄土で30年前に亡くなられた二歳年下の三島正六さんと再会されていることであろう。

〔追記〕
 *この木碑(木柱碑)は、雑誌「高志人」に水守亀之助の三島霜川回想記「三島霜川を語る」が連載されたのを機に霜川復興の気運が地元で高まり、霜川の生誕地の中田町の文化会が1956(昭和31)年8月に建てたもの。
 その後、霜川の三〇年忌法要の年〔1964(昭和39)年〕に現在の石碑に建て替えられた。この年の一連の行事は、松田富雄、飛鳥寛栗氏らを中心とした中田町文化会と三島霜川顕彰会が主催しておこなわれた。

by kaguragawa | 2016-10-01 21:58 | Trackback | Comments(0)