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タグ:越と札幌の橘家 ( 9 ) タグの人気記事   

津田仙の事業と人格の影響、を知る   

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 津田仙の学農社や「農業雑誌」にちなむ人物を追った二つの論考が入手できました。加納弘勝「津田仙の『農業雑誌』と地域への広がり―明治10年代と明治20年代の読者に注目して―」、下村明徳「学農社農学校卒業生による西洋野菜・果樹の普及活動」。

 この二つの論文からも津田仙の事業と人格の影響力がいかほどのものであったのかが見えてくる一方、その影響の及んだ人々の綺羅星のような活動にもいっそうの興味が惹かれる、そういう力作である。とりわけ、加納氏が自らの論文視角を、1〔学農社〕、2〔民業自奮〕、3〔多利の農業〕、4〔キリスト教的社会改良〕、5〔農民の「生活向上」〕の5つのポイントで整理して俯瞰図を描いてくださったことは、津田仙の事業の見取り図としても簡明で教えられるところの多いものでした。
(注:“2〔民業自奮〕は、津田が「自由を重し」と官位には無縁を貫き求めた、「物産興隆の道」としての「民業自奮」である。3〔多利の農業〕は、「欧米の運」をもたらすために農民に勧めた「幾多の収納」、「多利の農業」や「学理的農業」である。”という。)

 北陸の地に住む私にとって興味深いのは、下村氏が取り上げられた二人の北陸人「橘仁」と「阿閉政太郎」である。このブログで何度か断片的に取り上げた橘仁(甚兵衛)のことは、あらためて書きたいが、注目すべきは現在の松任市生まれで、津田仙に学んだのち金沢で西洋野菜を栽培し教育者として活動した阿閉政太郎である。阿閉政太郎については息子の阿閉温三の紹介文があるが、裏付けの十分にとれない記述が多い一方、関係した北陸学院関係の記録にも整合性のとれない部分があり、掘り起こしはこれからだと思われる。い

 いずれにせよ、津田仙の周りに独自な軌跡を描く衛星のような人物が輩出しており、それぞれの場でユニークな足跡を残していることは特筆すべきことであり、今後もそうした人物への丹念な後追いが続けられることで、今まで見えていなかった近代の特異な像を見せてくれるのではないか、というのが二つの力作に接した感想なのである。



by kaguragawa | 2019-06-10 23:14 | Trackback | Comments(0)

2月の短報、いくつか。   

 今月はもう21日なのに、気がついたら一つしか記事がない。というよりは、所用(諸用)に追われブログにもごぶさたしていて、気づいたら、もう21日になっていたというのが実感。あわてて?、短報、いくつか。

 啄木のごく近くに舶来品や洋酒などを扱う店として、住い周りでは本郷の赤門脇に「青木堂」が、勤務先の朝日新聞社近くには「亀屋」があった。智恵子さんから「送り来し――石狩の空知郡の〔北村農牧場の〕――バタ」は、これらの店にもあったようだ。おそらく啄木は知らなかっただろうが、のちに歴史を知ることになる者には、驚きだ。

 もう一つ、啄木と智恵子にちなむ報告を。webでも見ることのできる智恵子のある写真には、トリミングではずされているが蝶ネクタイの青年が写っている。この青年が、北村農牧場の北村謹だろうと思っていたが、謹さんのお孫さん(北村恵理さん)が書かれた『ハコの牧場』(福音館書店/2006)で、そのことに間違いのないことがわかった。
 そんなこととは別に、この本(童話)は、すばらしい本だ。ご一読をお薦めする。


 (富山県の100年ほど前の話)岐阜県から富山県を縦断する県西部の大河・庄川はかつて河口付近で小矢部川と合流して伏木を右岸として海に流れ込んでいた。川の堆積物は河港としての伏木の近代化を阻害していると、小矢部川と庄川を切り離す大工事が、伏木港新規築港工事と並行して内務省直轄工事としておこなわれた。
 下の記事の地図が、切り離された庄川の人工吐け川(新庄川)の築川工事の計画図の一部だ。左端に旧河口が見えるが、地図真ん中の太い2本の線の間が、新庄川河口となったところ。旧浜街道筋の家々が、河川敷になったのがわかる。
 なんと、六渡寺の北前船の廻船問屋の一つ「朽木家」は、この河川敷となった場所にあったのだ!。

 1913〔大2〕年、着工10余年後、この庄川改修工事にともなう伏木港築港工事の竣工式典で「各般の施設完備し海陸連絡の便一層顕著を加ひ、物資集散の度、年と共に増大するに至れる為め、本港民の享受する余慶も亦随て往旧の比にあらざるなり」とあいさつ文を読み上げた堀田善右衞門の妻・ときが、この朽木家(朽木清次郎)の四女であったことを知って、声を失った。
 この堀田善右衞門・とき夫妻の孫が、堀田善衞である。善衞の短篇「鶴のいた庭」には、この祖父夫妻(累代では曽祖父夫妻)をモデルとした人物が印象深く描かれている。

by kaguragawa | 2016-02-21 19:04 | Trackback | Comments(0)

津田仙と三人の越中人   

 昨年の8月、《津田仙とふたりの越中人のこと》というタイトルで、次のように書いていました。

 「津田仙と親しく交わった越中国射水郡生まれの、しかも嘉永年間と言う同時期に生を受けたふたりの越中人がいることをここに記しておきます。〔嘉永二年〕射水郡棚田村に生まれた稲垣示と、〔嘉永三年〕射水郡長慶寺村に生まれた橘甚兵衛(甚平/仁)です。」

 今日、ある偶然で知って驚いたのですが、――“親しく交わった”と言えるかどうかは、別として、――津田仙と接触を持った“越中国射水郡生まれの、しかも嘉永年間と言う同時期に生を受けた”越中人がもう一人いました。なんと、それは嘉永三年生まれの《海内果》です。32歳で夭折したこの越中人は、富山県が生んだ数少ない優れた思想家ではないのか・・・と私が考えている人物です。
 津田仙と海内果――。充分なことはわかっていませんが、二人の出会いについて資料に残っている限りのことは、正確に報告したいので、稿をあらためますが、その時期は明治11年です。とすれば、海内果は、訪問した津田のもとで橘仁と会っている可能性もあるのです。

 そう言えば、橘仁と、というより〔橘仁・いつ夫妻〕と、〔新島襄・八重夫妻〕との北海道での出会いも、今までふれられたことのない話題かと思います。このことについても、きちんと報告したいので稿をあらためます。
 おそらく橘仁が津田仙のもとから北海道に持って渡り札幌の地で根づかせたリンゴは、札幌から京都に帰った新島襄・八重夫妻のもとに何人もの札幌人から送られているのです。橘仁の丹精のリンゴは、珍しくしかも賞味すべきものだったことをこのエピソードは語っているようです。新島夫妻にリンゴを贈ったうちの一人(二人)が八重の会津時代の友人日向ユキ(NHKのドラマで剛力彩芽が演じている女性です)が北海道で結婚した内藤兼備とユキの――かつて敵対した薩摩人と会津人の――夫妻なのです。

〔追記:2014.06.20〕
 海内果と津田仙との出会いは、海内の初上京の折の明治10年2月でした。誤植であればこっそり直しておくのですが、私の資料の読みまちがいですので、あえてここで訂正しておきます。

by kaguragawa | 2013-03-30 23:33 | Trackback | Comments(2)

ちょっとメモ:私の北海道月間   

 私的なことながら今月を、“北海道月間”にしようと決めたのですが――といっても決めたのが月も半ば過ぎのことだったのですが――うれしいことに、北海道から“日本ハムファイターズ快勝”のニュースが聞こえてきました。

 国木田独歩の「空知川の岸辺」のフォローも不十分ながらできましたし、三島霜川の「石狩国大洪水横断記」もコピーを入手できました。安田善次郎の北海道とのいくつかの面での関わりもある程度正確に把握できました。e0178600_2321127.jpg私の趣味の野川紀行の点では、古地図で札幌市内を流れる伏籠川の蛇行する様子も確認できました。この伏籠川の左岸に橘智恵子さんの生まれた橘仁さんの家があったのだ。
(右の地図の蛇行する伏籠川の傍、元村街道(花畔札幌線)に沿って――「元」の字の左上に――橘仁の名が見える。)

 2日続いて書いた鬼籍情報も今日もつづろうと思ったら、尾崎紅葉から木下順二さんまで、平福百穗、野尻抱影というユニークな人もふくめ、多くの私の親しんだ人の多くがこの10月30日に亡くなっていることがわかり、ちょっと驚いたことでした。

〔注〕
 上の地図、いろいろ検索していたときに偶然見つけたものですが、地図を掲載されていたブログのアドレスをメモし忘れてしまいました。というわけでどういう地図の一部なのかも不明です。無断で使用させていただきましたが、ご了承ください。もし何かの情報お持ちの方はお知らせください。

by kaguragawa | 2012-10-30 23:06 | Trackback | Comments(0)

札幌の橘兄弟のことども   

 先日、紹介した北村智恵子の兄に、儀一と礼次がいる。儀一は5歳上、礼次は3歳上である。橘家のこの兄妹3人――兄弟は智恵子の下に忠男・信・孝・悌の4人の弟がいる――は同じ年に縁づいたらしく1910〔明43〕年に、橘礼次は栃内礼次となり、橘智恵子は北村智恵子となった。

 私にわかっていることはこの礼次さんが大学――東北大学農科大学(もと札幌農学校)――の卒業論文としてまとめた研究成果『旧加賀藩田地割制度』が、明治44年に東北大学農科大学の「経済学農政学研究叢書」の第1冊として刊行されていることである。e0178600_20325219.jpg
 そして、この本は国会図書館の近代デジタルライブラリでも見ることができるのだが、検索してみて驚いた。
 国会図書館の所蔵本の表紙には、「贈 有島先生 著者」という書き込みがあり、栃内礼次が有島武郎に贈呈したものだったのである。(詳細は割愛するが、武島は当時、東北大学農科大学予科教授であった。)

 それにしても札幌生まれの栃内礼次(橘礼次)が、加賀藩の江戸期の農地制度をその研究課題に選んだことは、いろんなことを想像させてくれる。
 端的にいえば、礼次の父・橘仁が加賀藩領の十村という大庄屋格の家の次男に生まれ、津田仙の学農社農学校に学んだ特異な経歴をもってもっていることに拠るのであろう。が、そのことは橘家では家長・仁が自らの出身地である越中国の農業の有り方についてしばしば語っていたことを思い起させる。

 さらに想うのは、智恵子も父の話にしばしば登場する父のふるさと話に耳を傾け、父の実家に滞在して卒業研究をおこなった兄・礼次の報告を聞くことで、越中国に思いを馳せ、“父の生国に一度は行ってみたい”との思いをもっていたのではないかということだ。
 啄木の『一握の砂』に詠われた北海道の橘智恵子と我が富山の距離は、智恵子の父が単に富山県の出身だというよりも近いのではなかろうか・・・、そんなことを二上山を眼前に見る高岡市の橘仁の生地で思うのである。

〔追記〕
 内村鑑三らの創立にかかる札幌独立教会に顔を出していた有島武郎は、橘兄弟の父・仁とも教会で顔を合わせていたはずである。また礼次の義父・栃内元吉とも有島は面識があったはずである。

by kaguragawa | 2012-10-06 20:34 | Trackback | Comments(3)

北村智恵子さんの歿後90年祭   

 今日、10月1日は、北村智恵子さんの亡くなられた日である。といっても、北村智恵子さんのことを少し説明しないといけないでしょう。北村智恵子さんの結婚される前の姓は、「橘」です。橘姓で、“橘智恵子”と書けば、石川啄木のファンの方には、“石狩の都の外の君が家”でおなじみの智恵子さんです。

 啄木が『一握の砂』で二十二首もの歌を捧げた“忘れがたき人人”の一人、大切な一人です。

 智恵子さんが結婚されてからも信仰をもたれていたと拝察するのですが(ご遺族の方にはこんな失礼な書き方をお許しいただきたいのですが)、今年は歿後「90年祭」の年になります。

 ある縁から智恵子さんが生まれた札幌の橘家、智恵子さんが嫁がれた岩見沢の北村家のことを、調べ始めて少しずついろんなことがわかってきました。
 そんなことの報告を・・・と思っていたのですが、今、余裕がありません。e0178600_20361940.jpg

 啄木の『一握の砂』の“忘れがたき人人(二)”二十二首中、私のいちばん好きな歌を写して智恵子さんの90年祭の日を迎えたいと思います。

   馬鈴薯の花咲く頃と
   なれりけり
   君もこの花を好きたまふらん

by kaguragawa | 2012-10-01 20:32 | Trackback | Comments(0)

津田仙とふたりの越中人のこと(1)   

 このブログと旧日記に何度か津田仙のことをとりあげてきました。「津田塾大の創始者津田梅子のお父さんです。」と説明すると、ああそうですかと、わかったようなわからないような返事が返ってくるのが普通です。しかし、津田仙は津田梅子の父であると同時に、近代日本の多くの生みの親の一人であるのです。名前はあまり知られていないにしても、その事績はほとんど知られていないにしても、その役割は決して小さなものではないのではないか・・・、と考えています。
 私がそう言っても説得力はないのですが、旧日記に紹介した事蹟をあらためて整理するとともに、津田仙の顕彰を少しずつでもこのブログでもしたいと思っています。

 今日、なにげなくweb検索をしていて津田仙が創立した学農社の学校規則を、「近代デジタルライブラリー」で見つけたので、そのアドレスを紹介しておきます。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812635

 ところで、津田仙と親しく交わった越中国射水郡生まれの、しかも嘉永年間と言う同時期に生を受けたふたりの越中人がいることをここに記しておきます。〔嘉永二年〕射水郡棚田村に生まれた稲垣示と、〔嘉永三年〕射水郡長慶寺村に生まれた橘甚兵衛(甚平/仁)です。
 橘甚兵衛は、津田仙の影響下で洗礼を受けた後の〔橘仁〕の名前で、このブログにも何回か名前を挙げたかと思います。彼は丹精をこめて育てたリンゴで札幌の農にも貢献しましたが、札幌独立教会の創設時のメンバーで堅い信仰の人であったこともふくめて、あらためて評価されるべき人物ではないかと思っています。

by kaguragawa | 2012-08-28 20:37 | Trackback | Comments(3)

石狩の空知郡の牧場のバター   

 ある個人的理由もあるのですが鬱鬱として心楽しまない日の多いこの頃です。極寒の監獄にいる100年前の無罪の人々のことが深く心をふさいでいますし、大逆事件とともに拾い読みを始めた石川啄木の歌や日記にみられる心象にも心が冷えることの多い日々でもあるのです。

 そんな啄木の日記ですが、16日の日記は少しほっとする内容のものでした。(全集を借り出す余裕がなく、引用はある本からの抜粋です。)

 一月十六日 晴、寒。
 気持ちのいい日であった。朝には白田に起こされた。
 空知の智恵子さんから送ってくれたバタがとどいた。
 前日の約によって社からすぐ土岐〔哀果〕君を訪ねた。二階建の新しい家に美しい細君と住んでいた。雑誌のことで色々と相談した。我々の雑誌を文壇における社会運動という性格のものにしようという事に二人の意見が合した。十時過ぎに帰ったが風が強かった。


 土岐善麿(哀果)――13日が初対面――と雑誌『樹木と果実』を出そうと意気投合したのだが、この雑誌は不刊に終わっています。
 それより注目したいのが、「智恵子さん」からのバターです。啄木ファンの方ならご存じと思いますが、このバターは遺歌集『悲しき玩具』に、“石狩の空知郡の 牧場のお嫁さんより送り来し バタかな。” と詠まれることになります。その贈り主・北村智恵子(旧姓:橘)は、啄木が函館の弥生尋常小学校の代用教員だった頃の同僚教師でした。その橘智恵子は、啄木が『一握の砂』に「忘れがたき人人」という章題のもとにその後半に、二十二首の歌を捧げた人なのです。
 啄木とこの智恵子さんの交流については、私のようなにわか啄木ファンでも語りだすとかなりの話題を持っているので別の機会にと思います。が、この機会に余談ですが書いておきたいのが、橘智恵子の実家の札幌の橘家は富山県射水郡長慶寺村(現:高岡市)の出であること、智恵子の父・橘仁は越中の地から上京して津田仙に学び北海道にリンゴ栽培を夢として渡ったこと、もう一つ残念なことにそれらに関わる資料を多少は集めたのですが、わたしの不注意で紛失してしまったこと。

 ・・・というわけで、ほっとする話題も私には少し悲しい思いにつながっていってしまうのです・・・。


〔追記〕
 一昨年の11月に、橘智恵子のことを断片ながら書いていました(1日28日)。
 「めぐり逢うことばたち:2009年11月」

〔追記〕
 web上に、啄木の全日記を載せておられるHPを見つけました。残念ながら制作者方の名前がわからないのですが、紹介しておきます。
 《石川啄木日記》

by kaguragawa | 2011-01-16 18:58 | Trackback | Comments(0)

“長慶寺村橘家”   

 図書館で目にした『越中の十村』という本をぺらぺらめくっていましたら、「〔小田吉之丈著 射水郡十村土筆〕に詳説された役家名」という記述があり、そこに“長慶寺村橘家”の文字を見つけました。

 「十村(とむら)役」というのは、一般的にいえば他藩の「大庄屋」とほぼ大きな格式をもった――10ケ村前後の村をたばねる、というのが語源――名家ですが、加賀前田藩に特有の制度で独自の行政上の役割も担っています。
 こうしたことも私の理解の及ぶ限りでふれながら、かつての射水郡長慶寺村(現:高岡市)の橘家から北海道に渡った明治時代の若者が北海道で築いた“橘さん一家”とりわけ「橘智恵子さん」についていずれ報告したいと思います。

by kaguragawa | 2009-11-28 17:08 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)