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七夕に国旗を?!   

 隣組の回状を子にもたせやる 七月七日国旗をかかぐべきこと

 筏井嘉一の歌集『荒栲』から
 昭和十年代初期の詠と思われる。


〔追記〕
 当時の日本では――今日の中国と逆で――1937(昭和12)年7月7日の「盧溝橋事件」勃発の日を、「北支事変(支那事変)」の日=屈辱の記念日!?としようとしたのでしょうか、はたまた戦意高揚の記念日としたかったのでしょうか。後者なのでしょうね。詳細、ご存じの方は、ご教示ください。

〔追記〕
 Aさんへ。「回状」とは今でもおなじみの「回覧板」のことです。ただし、「隣組」の法制化?のこともふくめ、この歌の 「七月七日」が、1938(S13)年なのか1939(S14)年なのか特定できずにいます。


by kaguragawa | 2015-07-07 22:49 | Trackback | Comments(0)

『仙人掌』から(1)   

 藻谷銀河『仙人掌』から昭和元年(大正十五年)の歌を、紹介します。この年の歌、とりわけ「浜黒崎」という歌群は、私が『仙人掌』を読んで感じる銀河の歌集全体の歌風とはすこしちがっているような気がしますが、浜黒崎――富山市浜黒崎、ここで銀河は病を養っていた――が、私にとっても懐かしい土地であることから、この歌群を中心にここに写しておきます。

『仙人掌』から
昭和元年(大正十五年)

病床歳旦

おもひでは通り魔のごとはかなかりつつがの床に聴く除夜の鐘

ははそばと妻と三人の水入らず病む身も今朝はめでたかりけり

雪ばれの日和うるはし起き出でて障子切り貼りしておりわれは

百日(ももか)まりはいらぬ風呂のひた恋しつつがなくなりはいる日やいつ

筏井の嘉一おもへば笑みまけて光るめがねの面影に立つ


浜黒崎

かひやぐら見ゆと出づれば早や消えて夕凪ぎわたる海のはろけさ

はてしなく松風ふける昼浜にきつゝきの音こだましてをり

小雨やみて磯松原の朝きよし松露さがしに出でましものを

蛍烏賊ひかる夜頃となりにけり古志の海辺を思はずや君

さのぼりし田のも渡りて来る風のとみに涼しききのふけふあたり

家路遠きこゝの浜辺の侘びごもり勿忘草のたねまきにけり

寺の夜のふけてねずみのさわぐ頃かもめのこゑは猫にかも似つ

磯ちかくとびうをとべりひとりねの早きめざめをすがしみつ我

松原に巣くひて松をからすゆゑ五位鷺狩のてつぽうの音

又してもくすりの味のかはりたる今朝ひえびえと閑古鳥なく

船の笛ひとり寝ざめてきく夜半のおもひは遠き妻にこそゆけ

遠妻をこゝろにもちて出でくれば夕波千鳥こゑあはれなり

この浜にさきしものとて石竹の花封じたり妹(いも)にまゐる文

朝なさな来るさかな売り今日は来ず町の祭に急ぎけらしも

蚤にくはれ寝ね足らざりしあかときは仏の鉦もわづらはしけれ

この浜に乳母とふたりの日をふれば幼なごゝろやよみがへるらし

鐘楼に鳩はなきつゝたまさかに妹(いも)と語らふ時惜しみかも

前の花田裏の松原寝ながらにこもごも飽かず明仙山泉福寺

野大根の花にあきつのとびそめてまぼしき浜の夏浅みかも

うらうらになぎし海かも日もすがら発動機船音たてゝをる

尼稚児は泣き泣きあたま剃られをりよその犬きてそれを見てをり

磯蟹をこゝだとらへてかへる路はあなうら痛し松の落葉に

浜ゆけば浜ゑんどうの紫匂ふ吾妹(わぎも)をまた偲び出づ

磯近くぬかえび食ひに寄る蟹を日に日に捕りて梅雨ならむとす

しなざかる古志の海辺に病みわびて春の野球を見ねばくやしも

病みこもる窓べに寝し東京へゆく汽車の灯をあこがれにけり

尼だちは麦托鉢に出はらひて猫とひるねす病人われは

からつゆに田川の雑魚のあぎとひて米の値高くなりにたらずや

読みつかれかうべ上ぐれば窓越に松葉拾ひの人さはにみゆ

この寺の前は日永の新川野ねながらにして汽車のゆくみゆ

することも言ふこともなし吾が欠伸乳母にうつりて日の永き哉

さみだれにしまし出ざりし浜川の流れのむきはいたく移れり

しろがねに大わだ光るはて遠みほのかに青し佐渡ケ島山

病みわびて妻にも遠く離(か)れ住めば天の星よりわが身かなしも

もの書けるわが顔のべに蜂の来たりしまし唸りて去りにけるかも

月をふくむ夕焼雲に虹のかゝり海に没(い)る陽のすばらしきかも

三年前みやこのなゐに死なざりし奇(く)しきいのちを祝ふ今日かも (九月一日)

二百十日すぎて今宵も浪高し見えてはかくる漁り火

by kaguragawa | 2014-08-16 07:31 | Trackback | Comments(0)

「越の彼岸桜」ちらほらと   

 朝早く特急に乗り込む家人を高岡駅まで送っていったので、ついでに高岡古城公園の北口である小竹藪に車を停め公園を散策しました。早くから散策やジョギングの人のいるものだなと驚いていると、シジュウカラ(四十雀)がツツピー、ツツピーとあいさつを送ってくれました。小竹藪にある筏井竹の門・嘉一の句碑と歌碑を見ることも目当ての一つだったのですが、コシノヒガンザクラの碑というかその説明書きを読みたかったのです。

 以前、高岡駅前の「桜馬場の名称の由来」を紹介したとき、次のような説明がありました。“明治35年(1902)市はこれ〔=桜馬場〕を公園に指定。戦後、増加する自動車の往来に樹勢が衰え、同30年(1955)公園を廃して、残った越の彼岸桜を古城公園に移植した。”
 要は、江戸時代初めに桜馬場に植えられた「越の彼岸桜」は、戦後、古城公園に移植された――ということなのです。その「越の彼岸桜」をどうしても見たかったのです。そしてもう一つ確認しておきたかったのは、この小竹藪のコシノヒガンザクラのなかにさらにその異種で新たに“タカオカコシノヒガンザクラ”と命名されたサクラがあるという昨年聞いた話題についてでした。
 驚いたことに、コシノヒガンザクラはソメイヨシノより早咲きらしく、まだつぼみの固いソメイヨシノの奥にコシノヒガンザクラはちらほらと幾本も開き始めているのです。そしてそのコシノヒガンザクラの中に緑色の識別札をつけられた「タカオカコシノヒガンザクラ」が確かにあったのです。

 富山県中央植物園の説明によれば「コシノヒガンザクラは、エドヒガンとキンキマメザクラの雑種。花は美しい淡紅色で、葉より先に開くのが特徴。「タカオカコシノヒガン」は普及タイプに比べ、花はやや小型ながら数が多く、枝に雪が降り積もるように咲く。花の裏側にある萼筒の膨らみが小型であることも特徴だ。また、葉縁の鋸歯が細かいという特徴も見られる。小竹薮には、幹の直径が15cm以上の古木の「タカオカコシノヒガン」が数十本ある。目印が付けられているので、花見のときに観察してみたい。」ということになるのです。

 最後に、「越の彼岸桜の碑」裏面の解説を書き写しておきます。
 ――越の彼岸桜は、慶長15年(1610年)、砺波郡太田村の宗右衛門(現在の金子家)が高岡城の馬場に献納したものと伝えられています。爾来桜馬場と呼ばれて、北陸随一の桜の名所となりました。この桜は、昭和4年、植物学者の小泉源一博士がコシノヒガンの中間種として、学会に紹介された当地方特有の品種であります。ここに開町360年市制80年の年にあたり市の花木に指定し、広く後世に伝えるものであります。
    昭和44年5月 高岡市長 掘健治


〔追記〕
上記の「小泉源一博士がコシノヒガンの中間種として」の部分は意味がよくわからないのですが、「コヒガンザクラとエドヒガンザクラとの中間種として」とあったのを私が写し間違えたのかと思います。

by kaguragawa | 2010-03-28 23:55 | 樹と花/植物誌 | Trackback(1) | Comments(1)

『籬雨荘雑歌』   

 忘れないうちにメモ。土曜日の朝の黄砂痕。
 玄関のアルミ戸が白くなっていたのも初めてですが、近くの駐車場の黒い乗用車など泥を車全体にぶちまけたようなものすごさ。いやはや。


 きょう、お目当ての本があり高岡の古書店に出向きました。桐木町の筏井竹の門・嘉一父子の空き地となった住居跡の前を通り、古書店についたらなんとそこには嘉一さんの歌集『荒栲』と『籬雨荘雑歌』がありました。『荒栲』は手の出ないような高値でしたが、『籬雨荘雑歌』は無理すればなんとかなる・・・というわけで、当初のお目当ての本は次回にして、えいっとばかりに購入。早く目を通したくて、近くの“わろんが”という喫茶コーナーで、炭火焼きの黒豆?をおつまみに熱いコーヒーとともにページを繰りました。

 昭和39年の帰郷の折の歌に目がとまり、思わず熱いものがこみあげてくると同時に、我が文学散歩のありように思いをいたし厳粛な思いにしばしつつまれたことでした。

  庄川の燃ゆる夕日に目はうるむもうふるさとに汽車近づけり

  ふるさとは異郷のごとく変りはて尋ねもあへずわが知れる道

  近くきて生家の跡は見ずに過ぐ記憶のままにとどめおくべく

by kaguragawa | 2010-03-21 19:58 | 本/映画 | Trackback | Comments(2)

「北陸新報」「石川新聞」・・・(2)   

 昨年は、昨年の100年前――すなわち1909年――の啄木、犀星、賢治の動向(行動)をそれぞれのかなり詳細な年譜にしたがって、追体験しようと試みました。犀星は10代の前半から勤めていた裁判所の下働きのような仕事を金石の登記所を最後にやめた年でしたし、賢治は盛岡中学校に入学した年でした。そういうわけで金沢の外港・金石(かないわ)に足を運んで犀星の下宿跡や詩作の基調音にもなっている浜辺の波音を聞きたいと思っていたのですが、残念なことに果たせませんでした。
 そして今年は、犀星の人生の一画期となる初上京の年なのです。が、犀星は上京の前にしばらくの間、新聞社で職を得るのです。それが2月からなのか3月からなのか、確たる記録もないせいでしょう、年譜によってさまざまなのですが、勤務先の新聞社は「石川新聞」ということで一致しています。そんなわけで、石川新聞とはどんな新聞なのか調べてみようと、年初からぼんやりと考えていたのですが、もう気がついたら3月になってしまっていたというわけです。

 そんなとき、“〔向田虎次郎は〕「北陸新報社」の文撰工(活字拾い)となる(この頃同社には室生犀星が給仕として在職)。”という、筏井虎ノ門の略歴を目にしてあわててしまったという次第なのです。
 
 とりあえず、この「石川新聞」のことや当時の犀星の動向について、手元の資料を書き写して、次の探索のステップにしようと思うのです。

 (続く)

by kaguragawa | 2010-03-10 21:17 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

竹の門と犀星   

 昨年末、江沼半夏さんの『筏井竹の門覚書』を読んで以来気になっていたのが、筏井竹の門(向田虎次郎、のち筏井家に養子)が生まれたのが“金沢市裏千日町”(正確には出生当時は町村制未施行で、〔金沢町裏千人町〕)だという記述でした。

 ところで室生犀星の出生地を、簡便に“金沢市千日町”としているものもありますが、これも正確には“金沢市裏千日町31番地”です。向田虎次郎(筏井竹の門)が生まれたのが明治4年、犀星が生まれたのが明治22年ですから少し年齢差はありますが、二人は同じ《裏千人町》生まれなのです。とすれば気になるのが向田虎次郎が生まれたのは裏千人町のどのあたりなのか?ということです。いずれにせよ裏千日町はそんなに大きな町ではありませんでしたから、ご近所です。

 残念なことに詳細な記述がある可能性のある『筏井竹の門覚書』も、そこから書き出したメモも手元にはありません(実は、こうした雑情報がぎっしりメモされている「かぐら川閻魔帳」ともいうべき雑記帳を紛失!)。そんな折、『高岡を愛した先人たち』の「筏井竹の門」の項(二ヶ竹亮介・稿)に興味深い記述を見つけました。

 “竹の門は、廃藩置県三ヶ月後の明治四年(1871)十月十六日(新暦11月28日)、金沢裏千日町の旧加賀藩士・向田家に生まれた。名は虎次郎、未熟児であり、体は小さく虚弱体質であったという。野町小学校卒業後は、紺屋に奉公に出された。虎次郎は染物の下弟子として図画を習う。これが将来、俳画に目覚める素地となった。のち「北陸新報社」の文撰工(活字拾い)となる(この頃同社には室生犀星が給仕として在職)。
 そして明治二十年頃から兄の影響で句作を始め、新聞にも掲載されたという。
 明治二十五(1892)、姉婿の弁護士・鶴見武三郎を頼り高岡に移住し、その事務員となる。一方、日本派俳句を提唱した正岡子規に共鳴し。新聞「日本」の俳句欄に投句をした。(以下略)”

 竹の門と犀星は、出生地や通った小学校が同じだけでなく、若い時代から同じく俳句への嗜好をもち、勤め先も一時同じだったようなのです。そしてこの「北陸新報社」について、犀星の側から調べてみようと思っていた矢先だったのです。

by kaguragawa | 2010-03-08 23:08 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

“松杉窟”跡に出会った高岡街歩き   

 街歩きは私のかけがえのない愉しみなのですが、思わぬ出会いに心躍らせることもあれば、たまには寂しい思いもすることがあります。きょう午後から、予定外の高岡の街歩きもそんな思いが交錯したものになりました。

 列車の時間待ちに高岡駅を出て、文苑堂書店に立ち寄ったのですが、ここまでに来たのなら久しぶりに高岡大仏の尊顔を仰いで行こうと急きょ予定変更となりました。途中の古書店で貴重な写真の載った『末広町史』(1975)――高岡駅前の広い通りの両側が末広町――を入手、高岡大仏に向かいました。お目当ては二つありました。一つは、大仏の回廊内にある堀田善衛の「高岡の大仏に寄す」という詩を見ること(直筆の書は、本堂に掲額とのこと)。もう一つは、藤子不二雄氏が植樹したという樹を見ること。

 それがどれだけ探してもその記念樹が見あたらないのです。恐る恐る寺の人に尋ねてみると、枯れたとはおっしゃらなかったのですが、“樹のあった場所を指さしながら、黒檀はなかなか大きくならなくて・・・”と、言葉をにごされました。net上で見ることのできた写真には「寄贈 高岡市出身漫画家 どらえもん藤子不二雄 昭和六十一年」と書かれていますから、NHKの「銀河テレビ小説」で『まんが道』がドラマ化されたとき――放映は、1986(昭61)の11月~12月――に、植えられたものだったのでしょう。
 これはやはりとても寂しいことでした。
 (なお、この樹は何の樹だったのでしょう?。net上では紫檀と書かれたものもあれば、ツゲと書かれたものもあります。なお、立て札の説明からは藤子不二雄(藤本弘?)氏が自ら手植えされたものではないように受け取れます。)

  大仏横のお休み処・喫茶「余里道(よりみち)」で、『末広町史』や文苑堂で買った『高岡を愛した先人たち』を読みながら一休みして、高岡駅に戻ろうと桐木町(きりのきまち)の横丁通りに入ったところ、とつぜん目に飛び込んできたものがありました。
 “筏井竹の門・嘉一 父子住居跡”と書かれた小さな立柱碑です。それは昨年、江沼半夏さんの『筏井竹の門覚書』(1990)を読んで以来、探しだしたいと思っていた俳人竹の門の“松杉窟”(しょうさんくつ)という住居跡を示すものだったのです。そしてその住居跡(付近)と思われる駐車場脇には、「筏井竹の門と嘉一父子」の詳細な説明板もあって、そうした碑や説明板を設置された人々の思いに感激して、大仏寺での悲しい思いも癒されたのでした。そしてこの細い通りを駅前の桜馬場通りに抜けたところが先日、藤子・F・不二雄(藤本弘さん)の生家跡近くだったこともうれしいことでした。

 こうして、きょうの予定外の高岡街歩きは、こころ動かされるものとなったのでした。

by kaguragawa | 2010-03-06 20:44 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(6)