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田中正造、逝って一世紀   

 今日が田中正造が亡くなって100年の節目の日になります。一昨年から読み返そうと思っていた『田中正造選集』も積んだり崩したりしただけで、田中正造と向き合うことなく2年が過ぎてしまいました。
 正造を語る資格もなければ、正造と格闘しようという気力も失くしていますが、晩年の正造に見えていた日本の姿を、日記から紹介しておきたいと思います。 

 日本を見よ。一つも天然を発起せしものなく却て天然を破る事に汲々して、その間僅に物質の力をかりて小利を得るもの多し。天然の大なるをしらず。有限物質の仮力を借りて辛き小利に汲々たり。その小利また私利、自然公共の大益をしらざるなり。これ現今現在のありさま。今日日本官吏及び資本富豪の向意及び目前の事業、皆暗黒の中にあり。一つモ天日の光ある公明正大の義務たるべきものを見ず。

 少し、仮名遣いを変えましたが、田中正造が亡くなる一か月半ほど前に書いた日記〔大正2年7月21日稿〕の一部です。

 信じられないくらいていたらくな電力会社、それにバックアップされかつバックアップするだけしか能のない国家。そうしたこんにちの「日本官吏及び資本富豪の向意及び目前の事業」が、皮肉なことに、正造の考えの骨組みを照射してくれています。

by kaguragawa | 2013-09-04 22:45 | Trackback | Comments(0)

賢治と小繋(旧稿)   

 以前、旧ブログに書いた記事〔2009年3月16日〕。今日、偶然見つけました。写しておきます。

 『イーハトーブ温泉学』に触発されて岩手の山野に思いを巡らしていて、ふっとこれも岩手の山村・小繋のことが思い起こされて、急いで岩波新書『小繋事件』をさがしだしました。
 小繋村の入会山(いりあいやま)であった小繋山の所有名義が村の旦那(地頭)・立花喜藤太から村外の柵山梅八ら三人の共有に変わったのが、1897(明30)年。これが入会紛争の起点であったわけではないが、村民の生活の糧の山であった小繋の山が、第三者の経済的利害にさらされることになったその起点の年が、賢治の生年の翌年であること。この小繋山の一部を陸軍省の軍馬補充部に売り付け利を稼ごうとした村外者たちの利害と村民の生活が鋭角的に対立し、第一次小繋訴訟が始まったのが、1917(大6)。この訴訟が提訴され争われた場が当時、高等農林学校の学生であった賢治のいた盛岡の地方裁判所だったことも、何の因果なのだろう。もちろん賢治は当時、入会紛争などというものにまったく関心がなかったであろうが、賢治が土質調査に歩いた山々はじつはほとんどが農民の入会山であったことは銘記されていいことだと私には思えるのです。
 そして農民の生活を保障するはずの「入会権」が認定されず、なんと15年かかったこの第一次訴訟の第一審が盛岡地裁で原告敗訴に終わったのが、1932(昭7)年。晩年、農民の生と関わり苦闘した賢治の死の前年なのです。

 賢治の生まるごとが、小繋村の農民の入会紛争の日々と重なっていたという事実を、――ここでは十分に書けませんが、小繋村の田中正造とも言うべき小堀喜代七のこともあわせて――自分なりに咀嚼してみたいと思っています

by kaguragawa | 2013-06-10 22:11 | Trackback | Comments(0)

稲垣示翁之碑   

 稲垣示は、私が今住んでいる射水の地(富山県射水市)が生んだ明治の政治家。e0178600_153772.jpg
 稲垣は自由党員で、田中正造とは所属党を異にしましたが、足尾鉱毒事件では積極的に反対行動に関わっています。
 今日、久しぶりにこの稲垣示の生誕地に建てられた碑を訪れました(射水市棚田)。

 6年前の旧「めぐり逢うことばたち」に《稲垣示の遭難》という題で、次のように書いていました。

 「板垣死すとも自由は死せず。」  ・・・この有名なフレーズによって記憶されている板垣退助の受難〔1882.4.6〕の報せに駆けつけた我が富山の――といっても当時現在の富山県の全体が石川県の一部でした。富山県が誕生するのはこの事件の翌年!――有志がいました。 稲垣示(いながき・しめす)です。
この事件の2年前、板垣の愛国社第4回大会〔大阪市北野太融寺。この大会により国会期成同盟となる〕に北陸の地から参加した稲垣示は、以後北陸の自由民権運動の先駆となるだけでなくむしろ中央でも運動の牽引役として活動を展開していきます。

その彼が今度は受難者の側になったのが今から109年前の今日〔1897.4.25〕のことでした。骨膜に達する創傷を5個所も頭に負ったにもかかわらず凶刃を持つ暴漢を追い詰めたと当時の新聞等には報じられています。

彼が襲われた原因は何だったのでしょう。この1987(明治30)年とはどういう年だったのでしょうか。そもそも稲垣示とはどのような人だったのでしょう。
(とりあえず、この受難事件が足尾鉱毒事件に関わるものだと言うことだけお伝えしておきたいと思います。)

〔追記〕
*稲垣示 嘉永二年八月二十日(1849.10.6)~1902〔明35〕.08.09
彼の長男・篤の生は、ほとんど三島霜川と重なるものである。
*稲垣 篤  1877.11.15~1933.02.06
*三島霜川 1876.07.30~1934.03.07

なお、稲垣家と三島家は、直線距離にして4キロ余である。
    〔2006.4.26〕

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〔追記:2011.01.02〕
 上記の6年前の稲垣示の記事に、三島霜川が登場していて我ながら驚いたのですが、地縁と言う関連だけで稲垣家と三島家をならべるという的外れな所業は、当時の思いつきははともかくとして、三島霜川の父・重法の政治への志向を考えるとき別の意味を持っていると思えてきます。このことは、最近ようやくわかってきたことで、あらためて書こうと考えています。

by kaguragawa | 2012-01-02 15:43 | Trackback | Comments(2)

もうひとつの1911年   

 今年初めての降り続く雪である。

 谷中村と茂呂近助を語る会『谷中村村長 茂呂近助――末裔たちの足尾鉱毒事件』(2001.6/随想舎)

 田中正造でもなく、闘う農民として語られる谷中村にとどまった16人の残留民でもなく、それどころか正造から“地獄に落つるとはこの如き人”と呼ばれた谷中村村長・茂呂近助。離村した近助らは北海道のオホーツクに面する原野に入植し、別の苦闘の歴史を刻んでいくことになる。
 1911年4月。「渡良瀬川沿岸鉱毒被害民66戸、北海道サロマベツ原野に入植」。
 100年前、大逆事件の背面で人知れずおこなわれた鉱毒事件の一つの動きがあったことも忘れてはならない。

 
 由紀さおりの“夜明けのスキャット”がインターネットを通じて全世界に広まり聴かれているという。

by kaguragawa | 2011-12-16 23:18 | Trackback | Comments(0)

田中正造の「越中屋」   

 ここしばらく田中正造が気になって「田中正造文集」(岩波文庫)などを、読み散らかしておりました。
 そうした折、鉱毒事務所〔東京事務所・越中屋〕の場所が特定できたので、そのことを前項の日記文とともに書き込もうと思っていたところ、とつぜん、サンデーモーニングに田中正造の名が登場してきて、驚きました。(この件は、いずれ。)
 
 東京の鉱毒事務所(東京事務所)は、正造の常宿に置かれたが、その三番目は;

  東京市芝区芝口二丁目六番地 越中屋(沢井八重)

   (←←芝口三丁目二番地 信濃屋←←京橋区八官町二六番地 宮下栄輔方)


〔追記:2011.12.14〕
 今日入手した『改定 田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』(2009.7/随想舎)によれば、――想定していたとおり――正造は、この「越中屋」から直訴の場所に出かけていたことが確認できました。それ以上に、驚きもしうれしく思ったのは、当時の越中屋のおかみさんの証言が残されていることでした。
 こうしたことも、あらためて・・・。

by kaguragawa | 2011-12-04 09:01 | Trackback | Comments(0)

デンキ開ケテ世間暗夜となれり   

物質上、人工人為の進歩のみを以てせバ社会ハ暗黒なり。
デンキ開ケテ世間暗夜となれり、然れども物質の進歩を怖るゝ勿れ。この進歩より更ニ数歩すゝめたる天然及無形の精神的発達をすゝめバ、所謂文質彬々知徳兼備なり。
日本の文明今や質あり文なし、知あり徳なきに苦しむなり。悔改めざれバ亡びん。今已(すで)に亡びつつあり。否已に亡びたり。

(田中正造「日記」大正2年7月21日)

 「電気開けて、世間闇夜となれり」。
 ここから文明悲観論のみを読みとっていないだろうか。もちろんこの警抜な文明批評は未読すべきだが、続く部分が正造らしいところ。

*【文質彬彬(ぶんしつひんぴん)】  以下、goo辞書より
・外面の美しさと内面の質朴さが、ほどよく調和しているさま。洗練された教養や態度と、飾り気のない本性が、よく調和しているさま。
▽「文」は表面の美しさ。洗練された教養や美しい態度、容貌ようぼうなどの外見。 「質」は内実、実質。飾らない本性。「彬彬」はほどよくつりあっているさま。
(かぐら川追記:正造は、文と質を取り違えていないか?)
出典
『論語』雍也篇
「質、文に勝てば即ち野。文、質に勝てば即ち史。文質彬々。然る後に君子なり。」

by kaguragawa | 2011-12-04 08:55 | Trackback | Comments(0)