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9月21日、海内果歿。享年三十二。   

 明治14年(1881年)といえば、歴史にくわしい人であれば反射的に「明治十四年の政変」を思い出す明治時代前半の画期になった年である。
 自由民権派から批難の多かった北海道開拓使官有物の払い下げは中止されたが、早期の国会開設を提唱した閣内の大隈重信は追放され、「将ニ明治二十三年ヲ期シ議員ヲ召シ国会ヲ開」くことが言明されることになった。これらが東北巡幸の天皇の帰京にあわせ突如断行されたのである。1881年10月12日である。

 この政変の一か月前というより、正確には3週間前の9月21日に、一人の新聞記者が亡くなっている。先日来、断片的ながら紹介をしている東京で活躍していた越中人の新聞人・海内果(うみうち・はたす)である。

 父の顕彰碑を建てるために帰京中の不慮の死である。腸チフスであるという。帰省時にすでに体調を崩していたともいうが、父の命日9月7日に碑の建立がとどこおりなくすんだのか、それを果がきちんと見届けたのか、資料を読んでみても明確に語るものはない。開拓使の官有物払い下げが事前に暴露されたのが、7月であり、東京は民権派がそれぞれの思惑で策動していた時期だけに、果の胸には、郷里富山のこれもいくつかの政治的動きを見据えた見取り図と「越中義塾」などの具体案があったはずである。
 海内果の最期の声を聴きたい。

 9月21日、海内果歿。享年三十二。

by kaguragawa | 2014-09-21 09:15 | Trackback | Comments(0)

明治11年11月19日付け:家人宛て海内果書簡   

Mさんへ

 前略
 【明治11年11月19日付け:家人宛て海内果書簡】は、海内果にとってもそこに登場する津田仙にとってもかなり重要な意味をもっているのではないでしょうか。
 書簡には、いくつかのことがらが記されているようですが、とりわけ私にとって興味深いのは、《11月16日の、津田仙・海内果の二人同道での大清公使館訪問》です。
 このことにつき、以下、メモ書きで失礼ながら、思いつきを何点か書いてみました。

A)海内にとって

●この書簡に《張斯桂》の名が登場すること。海内果は、のちに、父・久五郎の顕彰碑の篆額部分の書を張斯桂に依頼することになるのですが、そのきっかけがこの日の、海内と張斯桂の出会いと詩文の交換にあると思われること。そういう意味で、海内の事蹟研究にとっても、たいへん重要なものであること
 〔なお、同年12月9日の家人宛て書簡で、e0178600_187317.jpg帰省が来年3月になる理由の一つとして「支那ノ張斯桂何如璋ノ二公使ニ先日書ヲ頼ミ置キタレドモ未タ出来ザル」と書いていることから、11月16日の訪問の時点で、既に書を依頼したのでは、との異論があるかもしれません。
 しかし、当該19日書簡に、書の依頼のため公使館を訪問したと明記されていないことから、親交を結んだ張斯桂を後日(あまり日をおかずに)、あらためて訪ねて書を依頼した、と考えた方が自然だと思われます。〕


 左は、父の顕彰碑の篆額部分。張斯桂の書《海内不染居士之碑》

●この日の友好的な交歓が、東京日日新聞の12月27日の海内記事「朝鮮及ビ支那ノ貿易ニ従事スル商估ニ白ス」に反映していること。この点(大清公使館の訪問、公使(副使)との交情、それを踏まえた対中国観のありよう)も、海内の発想や思想を追跡する場合、大事な点であろうと思います。

●ところで、どういう経緯で、津田仙、海内果の《二人が同道で》、大清公使館に行くことになったのか、そこが知りたいところです。
 このことを考える前提に――最初の上京後間もなく(明治10年2月)海内果が津田仙を訪ねて以来、――海内と津田がどのような関係にあったのかを、押さえておく必要があります。が、それはともかく、今、判明している限りでも、この大清公使館の同道訪問は、海内と津田の交流の一つの出来事として、たいへん大きいものだと思います。

B)津田仙にとって

●津田仙研究にあっては、海内果との交流はまったく知られていないようです。
 最新のまとまった津田仙研究として歿後100年の2008年に発行された高崎宗司『津田仙評伝』がありますが、これに海内の名は登場しません。
 高崎氏が、明治11年の津田と海内のこの大清公使館訪問をご存じないことは、『津田仙評伝』の第六章「朝鮮人との交わり」の「六 中国視察と天津栗」が、麻生幸二郎氏の宇喜田秀穂の伝記から「恩師津田先生が支那人と交わりが深かった」との間接情報を引用する一方で、津田仙と中国とかかわりについて、津田の明治38年の渡清以前についてはまったく情報がないことを明記しておられることからも、明らかです。

・・・以上のように、
A)
 海内と津田の交流については、海内側にいくつかの資料があるので、そこを入り口に、ていねいに掘り起こすこと。このことは、海内の「農」との関わりを“あらためて”問うという側面をもっているでしょう。
(なお、津田仙については、先日も申し上げたように、《橘仁、稲垣示、海内果。この3人の嘉永年間生まれの射水人》がそれぞれに違った側面で津田と関わっていること、たいへんおもしろいことと思いますが、どれも具体的な掘り起こしはこれからです。)

B)
 津田の中国とのかかわりについて検討する場合に、この海内書簡が決定的に重要なものであること。周知のように、津田と朝鮮のかかわりは、かなりの研究の蓄積がありますが、津田の中国とのかかわりについての検討は、上記のように手つかずの状態であると言って良いのではないでしょうか。
 この明治11年11月の訪問が、清国公使館が永田町にでき、 e0178600_18334754.jpg何如璋公使、張斯桂副公使(副使)が着任次第の早々の訪問であることも、着目しておくべき点であろうと思います。

 以上、未整理のまま書き連ねましたが、また津田仙の背景などお気づきのことがありましたらご教示ください。


 ※写真は、清国公使館

by kaguragawa | 2014-09-10 22:43 | Trackback | Comments(0)

明治9年の岸六郎の動向   

 今日は岸他万喜の命日。命日にちなんで、最近、明治9年のある史料のなかに見つけた他万喜の父・六郎のある動向を紹介しておきます。

(明治九年)五月四日
 午後十時出区、笠間君改正所へ出役、昨夜高岡会所より石川県官員新川県事務引き受けに今夜高岡泊りにて明五日当所御通行にて富山へ御出之由報知其名簿如左
 元新川県事務引受として出張官員

権令 桐山純孝

(第一課から第六課の官員15名の名前省略)
裁判所
 四課兼八等  津田弘
 中属     秋山恕明
 少属     岸 六郎
 十二等    米林貫一
 権少属    安達正輝
 
 通計二拾一名


 この史料は、直前まで新川県であった現在の富山県の県域全体が石川県に統合〔1876(明治9)年4月〕されたことに伴い、石川県の官吏団が事務引受のため富山に向かうことになり、その道筋の村役人(第十四大区副区長)にその知らせがきたことを記録した一節です。
 この史料は、六郎が富山の地に司法官として赴任したのが――明治16年(林えり子『竹久夢二と妻他万喜』。なおこの年、富山県が石川県から独立)ではなく、――新川県が石川県に統合された明治9年であることを示唆しているのではなかろか。それは岸六郎が、現在の金沢市域に生まれた士族(元加賀藩藩士)であることを考えれば、自然なことであるとあると思うのですが・・・。

 なお、引用した史料(日記)は、当時第十四大区副区長を務めていた中老田村の海内果が記したものです。

〔追記〕
 今日は、台風8号の影響で、沖縄や信越地方でもの凄い量の雨が降り被害をもたらす一方、北陸地方は、朝からフェーン現象の暑い一日でした。とりわけ富山は37.1°の全国最高気温を記録しました。その中、他万喜のねむる浅岡家――他万喜の長女の養子先――の墓参に(富山市長岡霊園)。

〔追記:7.12〕
 Iさんから『原資料に官員と書いてあるものを、かぐら川さんは「司法官」と書いておられますが、彼らは「行政官」であって「司法官」ではないのではないでしょうか。』と、お尋ねというより詰問?をいただきました。さすがIさん、当時の判事職も、「行政官」です。そこに名前の挙がっている「津田弘」が“四課兼”と記されていることもふくめ、この点、別項で、少し書いてみたいと思います。

by kaguragawa | 2014-07-09 22:50 | Trackback | Comments(0)

岸田吟香、北陸路から電報!〔明治11年〕   

 いつも愛読しているブログに「市民が見つける金沢再発見の会」さんのブログ「金沢・浅野川左岸そぞろ歩き」があります。綿密な下調べがなされたうえでの読みやすい記事にいつも興味を惹かれるのですが、今回は、金沢市老舗記念館(もと中屋薬舗)にちなんで、1878(明11)年の「明治天皇の北陸御巡幸」が取りあげられています。金沢での宿泊はこの老舗中屋薬舗だったのです。

 ちょうどこの「明治天皇の北陸巡幸」に関しておもしろいものを読んだばかりなので、紹介しておきます。当時、東京在住で「東京日日新聞」に勤めていた富山県人〔海内果〕が故郷の家人にあてた手紙です。

(6月29日付け)
 “北陸御巡幸の供奉に日報社より岸田吟香氏派出の事に定まり申し候。よって同氏は日夜御巡路の名所旧跡などの書類相調べおり候。併し御巡幸は八月下旬と申すことなり。然れば越中へおいでの時分は稲刈り最中にて誠に忙しき時節になり申さずやと案じおり候。” 

                    
 この時点ではまだ北陸巡幸出発の具体的日時は決まっていないようです〔実際は、8.30に〕。海内が記者として勤める日報社の東京日日新聞からは、岸田吟香が特派員?として随行することになり、巡幸先のにわか勉強を始めたようです。岸田吟香は前にもご紹介しましたが、画家・岸田劉生のおやじさんで銀座で薬屋もしているユニークな人物です。それにしても、こんな形で岸田吟香が富山に足を踏み入れていようとは、想像だにしていませんでした。
 この年、金沢士族・島田一良らによって大久保利通が殺害されており〔5.14〕、北陸路の警備は厳重な体制で臨まざるをえなかったようです。海内は、風説とことわりながらも、有事の際、途中での越後からの帰京に備えて軍艦を新潟港に待機させるといったことも、7月13日付けの手紙で書いています。
 もう一つおもしろい手紙の一部を紹介しておきます。

(10月3日付け)
 “ときにもっとも驚き喜悦つかまつり候義は、新聞紙中に記載これあり、魚津金沢より岸田の御着輦を電報せしなり。実に迅速なるものにて昨二日の金沢よりの電報の如きは、午後二時半過ぎ発午後四時頃に中央電信局より日報社に報じ来る”

 岸田吟香が金沢から2時半に送った「電報」が4時には新聞社に届いたことを驚き喜んでいるのです。この当時、10日もかけて富山から東京に出ていった内海にとって瞬時に届く、電報の威力には目をみはったようです。
 そういえば、7月13日付けの手紙の一節に、“越中越後の電線御急成に相成”という「電線」は、電報用の電信線だったでしょうか。
 (なお、この年〔1878〕までに、電信線の国内整備がほぼ完了したという。)

by kaguragawa | 2014-06-21 17:42 | Trackback | Comments(0)

倉田繁太郎・・・   

 あの十字屋に関わる越中人の情報を探していたのですが、思いがけないところで、貴重な情報を得ることができました。

 海内果と倉田繁太郎・・・。

by kaguragawa | 2014-06-15 21:50 | Trackback | Comments(0)

海内果生誕地の碑   

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 海内果生誕地の碑

by kaguragawa | 2013-05-11 14:35 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

津田仙と三人の越中人   

 昨年の8月、《津田仙とふたりの越中人のこと》というタイトルで、次のように書いていました。

 「津田仙と親しく交わった越中国射水郡生まれの、しかも嘉永年間と言う同時期に生を受けたふたりの越中人がいることをここに記しておきます。〔嘉永二年〕射水郡棚田村に生まれた稲垣示と、〔嘉永三年〕射水郡長慶寺村に生まれた橘甚兵衛(甚平/仁)です。」

 今日、ある偶然で知って驚いたのですが、――“親しく交わった”と言えるかどうかは、別として、――津田仙と接触を持った“越中国射水郡生まれの、しかも嘉永年間と言う同時期に生を受けた”越中人がもう一人いました。なんと、それは嘉永三年生まれの《海内果》です。32歳で夭折したこの越中人は、富山県が生んだ数少ない優れた思想家ではないのか・・・と私が考えている人物です。
 津田仙と海内果――。充分なことはわかっていませんが、二人の出会いについて資料に残っている限りのことは、正確に報告したいので、稿をあらためますが、その時期は明治11年です。とすれば、海内果は、訪問した津田のもとで橘仁と会っている可能性もあるのです。

 そう言えば、橘仁と、というより〔橘仁・いつ夫妻〕と、〔新島襄・八重夫妻〕との北海道での出会いも、今までふれられたことのない話題かと思います。このことについても、きちんと報告したいので稿をあらためます。
 おそらく橘仁が津田仙のもとから北海道に持って渡り札幌の地で根づかせたリンゴは、札幌から京都に帰った新島襄・八重夫妻のもとに何人もの札幌人から送られているのです。橘仁の丹精のリンゴは、珍しくしかも賞味すべきものだったことをこのエピソードは語っているようです。新島夫妻にリンゴを贈ったうちの一人(二人)が八重の会津時代の友人日向ユキ(NHKのドラマで剛力彩芽が演じている女性です)が北海道で結婚した内藤兼備とユキの――かつて敵対した薩摩人と会津人の――夫妻なのです。

〔追記:2014.06.20〕
 海内果と津田仙との出会いは、海内の初上京の折の明治10年2月でした。誤植であればこっそり直しておくのですが、私の資料の読みまちがいですので、あえてここで訂正しておきます。

by kaguragawa | 2013-03-30 23:33 | Trackback | Comments(2)