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富山大空襲の一つの手記   

 うかうかと日を過ごしていたら明日はもう8月1日です。69年前の8月1日の夜、富山市は大きな空襲被害――空襲そのものは2日の午前0時36分から2時27分までの約2時間とのことですが――を受けました。
 もっと早く紹介しようと思いながら直前になってしまいましたが、ある人の書かれたこの富山大空襲の手記をここで紹介したいと思います。

 藻谷研介さんの書かれた「私の戦争体験―最も衝撃的な部分」です。藻谷研介さんは、富山が生んだすぐれた歌人・藻谷銀河(六郎)さんのご子息。研介さんは、この空襲で祖母・母・姉を失い、歌人だった父も空襲の大やけどで7日後に失い焼跡で荼毘にふすことになるのです。
 そしてこの手記は、当時、中学生(旧制の富山中学校の学生)だった研介さんが、当時を追憶して戦後40年ほど後に書かれたもの。富山大空襲の日を前にして、今、ゆっくりと読み直したいと思っています。

 このブログに立ち寄られた方にも、ぜひお読みいただきたいと思います。下記にリンクしたのは、HP《遥々来つるもの哉》から、「私の戦争体験―最も衝撃的な部分」の部分です。

 ・藻谷研介「私の戦争体験―最も衝撃的な部分」

 なお、名前の相似で、あれっと思われた方がおありかと思いますが、この藻谷研介さんは、藻谷俊介・浩介・亮介のご兄弟のお父さんにあたられる方です。
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by kaguragawa | 2014-07-31 21:59 | Trackback | Comments(0)

「トタン屋根を雪が滑り落ちるような・・・」   

 ことばの端々にひっかかる悪いくせがあります。「細かいことにこだわるな、大意をつかめ。」という趣旨の読書論が多くありますが、なんにせよ私は多いにこまかなことにもこだわって本を読むのを愉しみにしているのです。そんな私事はともかく、最近、あれっと思った片言隻句の例を堀田善衞『方丈記私記』の最初のほうから・・・・。

 “元来K君の家は、新橋の貨物駅であった汐留の、貨物の線路と向かいあった通りにあり、・・・”(ちくま文庫7p)

 《線路と向かいあった通り》とは?、

 “田園調布一、二、三丁目、東玉川町、玉川奥沢町などへ投下された焼夷弾は、あたかもトタン屋根を雪が滑り落ちるような、異様に濁った音をたてて落下して来、・・・”(ちくま文庫15p)

 《トタン屋根を雪が滑り落ちるような、異様に濁った音》とは?、といったたぐいのものです。

 上の例は、実際にK君――堀田のいう「K君」とは、詩人・小山弘一郎のはず――のお父さんの運送店の場所がほぼわかり当時の地図を見て、なるほど、と合点はしたのですが、下の例は、雪国・北陸に育った堀田善衛ならではの表現というべきなのでしょうが、残念なことにその同じ地域に生まれ育った私にもよくわからないのです。

 『方丈記私記』を精読?していたときから一か月以上もたった今頃このことを書くのは、つい先日、焼夷弾の投下(落花)についての別の、しかし、堀田の記述を思い起させる表現に出会ったからなのです。堀田の場合は1945年3月9日夜「東京大空襲」の折の記憶ですが、下の記憶は同年8月1日夜の富山大空襲の折のものです。

 “焼夷弾が落ちて来る時は。まるでどしゃ降りにでも遭った時のようにざぁっつという音を立てる。”

 この個所が堀田の雪の例を思い出させ、そういうことだったのかと思わせてはくれたのですが、堀田の核心にちかずくことを容易に許してくれないこの書物『方丈記私記』については、未だに得心のいっていないこの個所を含め、片言隻句にこだわって、折々、書いてみたいと思っています。

〔追記〕
 上に一部引用した富山大空襲のドキュメントについては、いずれ紹介したいと思っています。ぜひ多くの方に全体を読んでいただきたいと思っていますので、あらためて紹介します。
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by kaguragawa | 2014-06-29 17:00 | Trackback | Comments(0)

E・アームストロング『富山空襲、そして進駐軍』   

昨日、書名だけ紹介した本、というか読みやすい小冊子ですが、きちんとした感想も書けそうにないので、2節ほど書き写して、この本の紹介にかえさせていただきたいと思います。

 『富山空襲、そして進駐軍――日本人となった婦人宣教師の手記』
   著者:マーガレット・E・アームストロング(亜武巣マーガレット)
   翻訳:宮崎ゆかり
   発行者:堀江節子/もえ編集室

 富山大空襲直後のありさまをアームストロングが記録した一コマです。昨年の3月11日直後にも繰り返されたであろう光景です。

 『私たちは掃除婦の石垣さんを探しに行った。その途中で友人たちや知人たちと出会った。みんなお互いに「生きていてよかった」と言っていた。とうとう私たちは兵舎の近くで石垣さんを見つけた。彼女の顔は泣いたせいか腫れていた。彼女は家を出た際に自分の七歳の男の子と離れてしまい、探し出すすべをなくしていた。最初わたしたちは 「いっしょに男の子を探しましょう。きっと見つかります。」と言って、彼女を勇気づけた。
しかし、あちこち探し回ったが見つからず、さらにどこに行ってもまわりには死んだ人や死にかけた人がいたので、私たちは少し気が弱くなってしまった。見知っている学校の先生に会ったので、このような男の子を見かけなかったか尋ねたが、彼女からは「土手に行って、そこに積まれている子どもの死体から捜した方がいい。そこで男の子が見つかるのでは・・・」という冷静な返事があった。私たちは積み重ねられた小さな死体の周りを取り囲み、身元確認のために群がっている人々を見たが、そばまで行く勇気がなかった。長い間、名前を呼んで探し回ったが何の手がかりも見つけられなかった。』


 天災であれ、人災であれこのような光景が繰り返されることのないよう、私たちは最善を尽くさなければならないのだ。その歩みが迂遠であろうとも。(なお、石垣さんの息子さんとは再会できたことが、後段で書かれています。)
 上に写した前の節には、こんな記述もある。ほんとにこうした思慮深さと愛の深さをもつ人々には敬服の限りである。

 『私たちが知っている人が一人、またひとりと現われた。彼らは別世界から来たようであった。それほと彼らの様相は変わり、また、それほど周りが変わっていた。六人の子どもをもつ母親が私たちの方にやって来て、彼女の子どもたちが助かったことを喜んでいた。
市川さんは自分の背負い袋から炒り米を出して少し分け与えた。他の者には火傷のためにと油を少し与えた。さらに三番目の者には、煙で痛む目にホウ酸を与えた。緊急時に必要なものを背負い袋に入れていた。彼女はなんと思慮深いのであろう。』
 

 ※富山大空襲から敗戦、占領期にわたる手記を残した“日本名亜武巣マーガレットは、富山市で幼児教育にたずさわったカナダ・メソジストの婦人宣教師であり、日本国籍を取得して、戦時下の日本で拘束されないまま暮らした数少ない「外国人」の一人である。”と、この書を発行した堀江節子さんの「はしがき」にあります。
 この本は、いずれ店頭に並ぶのだろうか。その辺りのこともわかったら、またお知らせしたいと思います。
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by kaguragawa | 2012-08-05 17:16 | Trackback | Comments(0)

たまきの周辺(2)   

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 富山市街の大空襲を生き残った立山醤油味噌の煙突。大正時代末につくられたものという。100歳近い煙突である。
 昨晩のニュースで聞いて驚いたのだが、このレンガ積みの煙突、今月末には廃業に伴って取り壊されると言う。手前の建物の瓦はすでにはずされている。

 他万喜(たまき)の亡くなった家――たまきの周辺(1)――から直線距離で300メートルぐらいだろうか。
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by kaguragawa | 2012-07-14 23:34 | Trackback | Comments(3)

たまきの周辺(1)   

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  他万喜(たまき)が晩年を過ごした辺り。
 他万喜がいた娘・浅岡敏子の家は、ちょうど道路に面した角地でしたが多少道筋が変わっているので、写真手前の道がその家跡になるのではないかと思われる。
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by kaguragawa | 2012-07-14 23:28 | Trackback | Comments(0)

8月1日――犀星と賢治の生誕の日に   

 夏が来れば思い出す~♪ではないが、8月1日になるといろんなことが次々と想起されてきます。
 以下、クーラーのきいた部屋で書くことにためらいを覚えつつの、メモです。

 今日が、室生犀星の誕生日とされていること――。8月1日が犀星の誕生日であることに疑問を呈したものを読んだことはないのですが、彼の出生の経緯からしても、私には8月の1日と言う確定した日付には疑問を感じます。しかし、夏の盛りを思い出させるこの8月の朔日は、“夏の日の匹婦の腹に生まれけり”という犀星の句と併せて犀星を想うに欠かせない日なのです。

 実は、竹久夢二の金沢での個展が1915(大6)年9月、市内の金谷館でおこなわれたことの詳細をTさんに報告しないといけなくて、このときのことを犀星は『女ひと』という随筆集の文章で書いていることも、併せて書こうと思っているのですが、少し時間をいただきたいと思います。
 (犀星はこの年の夏から秋にかけて、養父・真乗の危篤と死、とみ子さんとの婚約などで金沢にいることが多かったのです。また夢二の世話をした西出朝風――彼も八朔の生まれ――はなんとこのとき千日町に住んでいて犀星の近くにいたのです。)

 さらに、犀星と「金谷館」で思い出すのが、萩原朔太郎の犀星を訪ねての来沢〔1915(大4)〕5月〕のことです。このとき金谷館で歓迎の会がもたれているのです。

 “萩原朔太郎氏はすぐる八日正午着の列車で来沢。西町松籟館に投じた。同時に白秋氏も来沢するはずであったが、雑誌「アルス」の方が手を離せないので中止となった。やむを得ない事であった。十四日には朔太郎氏の歓迎会を金谷館で開くことになった。人魚詩社並びに私等の同人が主催となって、室生犀星氏を初めとし多田不二、志筑茂二、安島清太郎の諸氏、それに萩原朔太郎氏と小畠真一、八田健一の両氏並びに私のつごう八人、極めてなつかしい夜であった。皆、非常に酔った。非常に酔って唄った。山村暮鳥氏よりは「朔を殺さないでください」といって来た。非常に嬉しいことである。ことに犀星氏は最も喜んでいた。超えて一七日、萩原朔太郎氏、遂に帰国の途につかれた。それは非常にかなしい夜更けであった。”(「遍路」〔大正4年〕6月号/編集後記〔西尾憲二郎〕)

 8月1日に戻って、やはり犀星のつながりで思い出すのが、犀星の次男・朝巳さんの金沢連隊への入隊と富山大空襲のことです。
 以下は室生朝子『父犀星と軽井沢』の(毎日新聞社/1987.9)の一節です。

 “昭和二十年になると、〔注:軽井沢の〕町の中ではほとんど男性を見かけなくなった。日本中に男性がいなくなったともいえるほどで、憲兵隊の人達と体に故障のある人、そして弟だけであった。だが七月の末、最後の召集令状が弟にも配達された。
 私は金沢の連隊まで弟を見送っていった。叔母の家に泊まったが、髪をまだ切っていなかった弟を見て、叔母は一喝した。入隊の前日、彼は床屋へいった。連隊の営門前で弟と別れた私は、すぐに軽井沢に戻った。列車が富山を出て間もなく、空襲警報がでて列車は止まった。富山が空襲を受けたのであった。”

 そして、8月1日の富山大空襲のこととなるとやはり、父の富山空襲語りのことを書いておきたいと思うのですが、時間が尽きました。

 今日8月1日をやはり戸籍上の誕生日とする宮澤賢治のことと、斎藤文一さんの『科学者としての宮沢賢治』(平凡社新書/2010.7)のことも日をあらためます。
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by kaguragawa | 2010-08-01 21:59 | Trackback | Comments(2)