人気ブログランキング |

タグ:夢二・他万喜・他丑・彦乃 ( 56 ) タグの人気記事   

山本良吉の命日に――岸他万喜と山本良吉(2)   

 今日、7月12日は、前回の項で紹介した山本(金田)良吉の命日になります(1942[昭和17]年7月12日歿)。

e0178600_23241874.jpg
 ここでの話題の一人、岸たまき――。夢二ファンの方には多くを語る必要はないでしょうが、たまきは、夢二が絵画人生を歩み始めた若き日の同伴者で、夢二の戸籍上の唯一の妻です。離婚後、ついたり離れたりの愛憎ドラマが繰り返されますが、多くの女性との遍歴を重ねた夢二の最後を看取ったのも彼女たまきです。何より、美人画で知られる夢二の〈夢二式美人〉は、若き日のたまきをモデルとして描き始められたものであり、正式に絵を学ぶことのなかった夢二のアドバイザーであったとも言われています。たまきの初婚の夫が美術学校を出た日本画家であったことによるたまき側の絵の素養が夢二を助けたのだとも。

 しかし夢二の人生にからみついた恋多き女としてのみ描かれるたまき像が、たまきの人生をきちんと語っているものと言えるのか、大いに疑問です。夢二に出会う前のたまきはどんな女性だったのでしょうか。夢二と死別したのちの晩年のたまきの生はどんなものだったのでしょうか。

 たまきが生まれたのは、1882(明治15)年。たまき(他万喜)は、明治維新から十余年後に、もと加賀藩の地で司法の道に進んだ岸六郎左衛門(六郎)の娘として金沢町(金沢市)に生まれました。父の名前からもわかるように生まれは士族です。前回、紹介した山本良吉(金田良吉)が生まれたのも、岸家とほぼ同格の加賀藩の士族の家です。岸家も金田家も、金沢の小立野近辺にあった地縁によるのか、藩士として近い職務を担っていたのか、間にはいる‎人があったものか、岸六郎左衛門の妹・直(なお)が金田家の清三郎に嫁ぐことになります。そして、岸六郎左衛門(六郎)・順夫妻の三女?が「他万喜」、金田清三郎・直夫妻の三男が「良吉」なのです。

  *山本良吉(1871~1942.07.12) 母・直  =岸五郎右衛門長女
  *岸他万喜(1882~1945.07.09) 父・六郎 =岸五郎右衛門長男

 金田家の方は、武士の商法?として米穀商として維新を生きていくことになりますが、必ずしも順調ではなかったようで、金田夫妻を、司直の道に進んだ兄の岸夫妻が支援することもあったようです。そういうわけで岸家と金田家は親しい間柄を続けたようで、良吉は母の直に連れられてよく岸家に赴いたことを回想のなかで記していますし、野田山にあった金田家、岸家の墓に墓参したことを母との道行きの思い出とともに懐かしく振り返っています。

 では、このように親密な関係にあった〔金田家と岸家〕の〔良吉と他万喜〕。二人は、かなり異質なそれぞれの道を歩むことになりますが、従兄妹としては相親しく交わる間柄だったのでしょうか。10歳の年齢差で隣県で結婚することから生活を始めたたまきの方は、良吉のことは意識すること少なかったのではないでしょうか。
 しかし、若き日の二人のエピソードからは、相似た気質を感じることができるように思われます。それを文字にすれば「不羈」ということになるでしょうか。

 若き日の金田良吉の西田幾多郎、鈴木貞太郎(大拙)、藤岡作太郎らとの交友、師・北条時敬との交情については、あらためて書いてみたい。

〔追記〕
※7月12日は、鈴木貞太郎(大拙)の命日でもあります〔1870.11.11--1966.07.12〕。



by kaguragawa | 2019-07-12 23:33 | Trackback | Comments(0)

たまきの命日に――岸他万喜と山本良吉(1)   

 今日、7月9日は、このブログでなんどか話題にしたことのある岸たまき(他万喜)の命日になります(1945[昭和20]年7月9日歿)。

 その他万喜の命日の直前に、他万喜にかかわる新事実が判明しました。「新事実」といっても不明になっていたことを私が掘り出したわけではなく、たまきに因む一般に知られていない事実をある方から教えていただいたのです。そして、自分の不明を恥じつつ、思いがけないことを知り得たことを喜んでいる次第なのです。

 といっても、誰しもが、「えーっ、そうだったの!」という驚くといったものではなく、とてもマイナーな?話題です。

 たまきに関わる新事実は、ある人物に関わっています。その人物《山本良吉》のことを先に紹介しておかなければなりません。コトバンクに掲載されいる〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus〕のよればこうです。
e0178600_22185187.jpg


山本良吉
1871-1942 明治-昭和時代前期の倫理学者,教育者。
明治4年10月10日生まれ。金沢の第四高等中学の教育方針をきらい,同級の西田幾多郎らと退学。東京帝大を卒業し,三高教授,学習院教授などを歴任。大正11年旧制武蔵高創立に参加し,昭和11年第3代校長となった。昭和17年7月12日死去。72歳。石川県出身。旧姓は金田。号は晁水。著作に「中学研究」「倫理学史」など。


 多少、金沢出身の明治・大正期の人物のことを調べたことがあり、また、ある人物の出身校として〔旧制・武蔵高校〕のことを調べたこともある私にとっては「山本良吉」はたいへん親しい名前なのですが、上の説明のなかに出てくる西田幾多郎に比べれば、山本良吉はたしかにビッグネームとは言えないかもしれません。しかしながら、魅力いっぱいのユニークな人物なのです。


 〔金沢湯涌夢二館)もあり、〔金沢ふるさと偉人館〕で山本良吉の顕彰をおこなっている金沢市にとっては、竹久夢二やその妻・たまき(岸他万喜)と山本良吉は、貴重な人材資源のはずですが、岸たまきと山本良吉という二人の金沢人のつながりが話題にされたことは、私の知る限り、今までなかったのです。

 ある方からさりげなくご教示いただいたびっくりするような事実、それは山本良吉と岸他万喜が、従兄妹(いとこ)であったという事実なのです。

  *山本良吉(1871~1942.07.12) 母・直  =岸五郎右衛門長女
  *岸他万喜(1882~1945.07.09) 父・六郎 =岸五郎右衛門長男

(続く)


参考《山本良吉》:
〔金沢ふるさと偉人館HP〕
https://www.kanazawa-museum.jp/ijin/exhibit/13yamamoto.html
〔武蔵学園のHP〕
https://www.musashigakuen.jp/ayumi/kinenshitsu/tenzi/ryakuden/ryakuden10.html



by kaguragawa | 2019-07-09 22:22 | Trackback | Comments(0)

春の彼岸といわれれば・・・   

 春分の日といわれてもピンとこないが、春の彼岸といわれれば少し体感的にわかるものがある。

 が、残念なことに、季節のうつろいを味わうどころか、ゆっくり本を読む時間も、いろんな資料を調べる時間も、思索についやす余裕もないこの頃で、よって発見の驚きにも喜びにもひたることのできない日々が続いています。

 長いこと、――引き続きのパソコンの不調も理由の一つですが――このブログにも記事のないこと、そんなわけです。おそらく復帰は5月ごろか・・・と思います。

 そうそう、明日(3月21日)から高志の国文学館で企画展「夢二の旅――たまき・翁久允とのゆかりについて」がはじまる。その3月21日は、岸たまきの兄で、夢二とも縁の深かった岸他丑の歿後60年の命日になる。そうしたことも、心にとめながら春の一日を過ごしたい。

by kaguragawa | 2016-03-20 22:50 | Trackback | Comments(2)

大逆事件 死刑執行   

 105年前の今日(1911年1月24日)、大逆罪で死刑を言い渡された24名のうち特赦で無期懲役となった12名を除く12名の死刑が、東京監獄で執行されました(12番目の管野すがは、翌25日に繰り延べ)。

 石川一(啄木)は、当日の日記にこう書いた。

一月二十四日 晴 温
 梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香いがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
 社へ行ってすぐ、「今朝から死刑をやってる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、ああ、何という早いことだろう。そう皆が語り合った。
 夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。


 
e0178600_23252545.png
 絵は、竹久茂次郎(夢二)が、1907年8月18日に幸徳秋水宛てに書いた暑中見舞い?はがきの裏に書いたもの。

by kaguragawa | 2016-01-24 08:06 | Trackback | Comments(0)

[水上峰太郎][野口詮太郎]――がっかりとびっくり   

 思ってもいない資料を見つけて、――といっても、要は当方の認識不足ということに尽きるのですが――驚きました。

  ある名簿の同じグループに、「野口詮太郎」と「水上峰太郎」の名前を見つけました。〔第四高等中学校/明治二十三年七月卒業生 29人〕――驚きました。竹久夢二の縁者として追いかけている「水上峰太郎」と堀田善衞の縁者として追いかけている「野口詮太郎」。この二人は、同期生として金沢の地で医学を学んでいたのです。それにしても同期生とは、思いもよらないことでした。

 そもそもは、水上峰太郎が金沢の「四高」の卒業生であることを諸資料で知って、四校の卒業生名簿を近代デジタルライブラリで探し出すところから始めたのですが、まずは水上峰太郎が、第四「高等学校」ではなく、第四「高等中学校」の卒業生だったことに、納得かつ落胆。明治3年(資料によっては2年)生れの峰太郎であってみれば、第四高等学校の前身の高等中学校の時代であることに思い至らなかったこと、我ながらまず第一のがっかりだったのです。まあそのがっかりは、峰太郎の名前が四高関係者の中に間違いなく存在していたことで安堵に変わりましたが。
 やれやれと思っているところに、「水上峰太郎」の名の近くに思ってもいなかった「野口詮太郎」の名があって、今度はびっくりです。しかしこれも落胆のタネでもありましたが。
 野口詮太郎が四高の卒業生であることも既知のことではあったのですが、峰太郎と同じ頃に在籍していたことに思い至らなかったこと、頭の中で知識がリンクされていないことが、第二の落胆だったのです。人事興信録の「君は富山県士族野口忠五郎の長男にして 明治三年十一月を以て生れ 大正十年家督を相続す 明治二十三年第四高等中学校医学部を卒業し 同二十四年陸軍三等軍医に任ぜられ 大正六年陸軍軍医監に累進す」という記述を、書き写していながらすっかり忘れていたのです。しかもこの記述は、卒業学校名も「第四高等中学校」と正確に記しているのですから、私のぼけぶりはかなりのもので、さらに落胆が深まったというわけです。

 もう一つ思いもよらぬ名前を見つけて、あわてました。これはまったく想定外である以上にどう考えたらよいのか、悩まされた記載です。「川崎五郎兵衛(川崎順二) 富山」・・・。
 蚕都であった山間の街の八尾〔当時は富山県婦負郡八尾町〕に伝わっていた「おわら」を今日見られるようなおわらに変身させた立役者(初代越中八尾おわら保存会会長)“川崎順二”も金沢の四高医学部の卒業生であることは、記憶にあったのですが〔http://kaguragawa2.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-45c4.html〕、彼は生年〔1898(明31)年〕からして大正10年くらいの卒業生のはず・・・と思っていたからです。そして、今確認したところによえると「大正十一年五月」の卒業生名簿に「川崎順二」の名前があります。これが、八尾の開業医・川崎順二に間違いはないでしょう。・・・とすれば、〔明治二十三年七月卒業生〕中の「川崎順二」は別人?、同名の父親???。八尾の医家「川崎家」のことを、調べてみる必要があるようです。

 ――以上、見つけた古資料にびっくり、我が老朽化頭脳にがっかりの顛末。

 ※水上峰太郎は、竹久夢二の最初の妻・他万喜(岸他万喜)の姉・岸薫が嫁いだ医家。富山市総曲輪で開業。
 ※野口詮太郎は、堀田善衞の父・勝文(野口勝文)の兄。陸軍軍医。

by kaguragawa | 2015-12-29 14:25 | Trackback | Comments(8)

〈ある写真〉――おお、夢二に抱かれた添田知道少年がいる   

T様へ

 管野すが特集の7年前の「彷書月刊」(2008.2)に載っている「近藤千浪・白仁成昭さんに聞く」中の田村治芳さんの〈ある写真〉を見ての発言;「唖蝉坊がいる。おお、夢二に抱かれた添田知道少年がいる。」について、写真の確認、有り難うございました。
 やはり、1906(明治39)年10月28日の社会主義婦人会(運動会?)の写真でしたね。
 確認の労をとっていただき、感謝に堪えません。有り難うございました。

 この写真にこだわったのは次のような理由からです。

1)
 ここには添田知道を抱く竹久夢二が写っていて、あきらかに岸他万喜である女性(少し首を傾げている)が、この写真説明では「竹久彦乃」の名で紹介されています。
 そしてこの『唖然坊流生記』に「戸山ケ原の運動会(明治三十九年秋)」と題して掲載されている写真が、『光』(明治39年11月5日号〔第1巻第26号〕)の7pに「社会主義婦人会」として報告されている10月28日の運動会のものであることは、ほぼ間違いのないことでしょう。

※以上のことは、すでに渡辺政太郎研究家の飯野正仁さんが「〈髑髏〉の時代――竹久夢二における反抗の原基」(『夢二 アヴァンギャルドとしての叙情』展図録/2001.4/町田市立国際版画美術館)で、指摘されています。

2)
 ところが夢二研究では、「夢二とたまきの出会いは、〔明治39年11月5日〕である」というのが、通説です。長田幹雄さんの労作「夢二年譜」中の次の記述を、ほとんどの夢二研究者が無批判に引き継いでいるようなのです。
 長田=竹久年譜の明治39年の項には、「十一月一日 岸たまき、早稲田鶴巻町にエハガキ店つるやを開店する。/十一月五日 開店五日目、夢二つるやに行き、たまきと初めて会う。」とあります。が、あきらかに10月28日の写真が示す事実と異なっているのです。
 上記の飯野さんの表現を借りれば「11月5日以前にすでに夢二とたまきは社会主義者の集会に一緒に出掛ける程の知り合いであったという事になる」わけです。

※ある本では――今、手元にその本がないので、その本の名の紹介も引用もしませんが――、夢二とたまきが参加したこの運動会のことを紹介しつつも、「11月5日」の方を優先させて運動会の方の日付を変えてあるのです。

3)
 この「11月5日出会い説」の根拠は、岸他万喜が後に書いた追想エッセイ「夢二の想出」(『書窓』/昭和16年7輯)のようです。そこには、「(開店)五日目に長髪の異様の青年が来まして」とあります。しかし、たまきは「つるや」の開店日を「11月1日」と書いているわけではありません。それどころか、たまきは「十月一日に開店早々わんさわんさの人気にて」と書いているのです。
 長田幹雄さんは、たまきの書いた「10月1日」を、何故か「11月1日」にしてしまったのです。これは、長田さんらしくないケアレスミスとしか言いようがありません。

※「たまきの記憶は正確なものなのか?」という問題は残りますが、長田さんの《「夢二・たまきの出会い=明治39年11月5日説》は、その根拠が、他万喜のエッセイによるものとすれば、それはほぼ、崩れていると言ってよいと思います。 なお、他万喜のエッセイ以外に鶴巻町の「つるや」の開店日を書いた資料を私は、今まで目にしたことがありません。

4)
 逆に、「11月5日以前にすでに夢二とたまきは社会主義者の集会に一緒に出掛ける程の知り合いであった」ことの傍証となる、夢二の相馬御風宛ての書簡(はがき)〔明治39年10月20日付け〕があることを、最近知りました。
 このはがきには、夢二の手で二人の男女が後姿で描かれています。夢二とたまきの交際を間近にいて――居住の地理的位置関係においても、交際の深さにおいても、――知る位置にあった御風に宛てて、夢二がこれみよがしに?男女を描いたとすれば、それは“自分とたまきは今日も一緒です”のメッセージと考えるのが一番無理がありません。なお、はがきに描かれた男がかぶる帽子は、「戸山ケ原の運動会」の夢二がかぶる帽子と同じ種類のもののように見えるのですが、これも予断でしょうか。

※この頃の夢二の交遊者としてたまきが上記のエッセイに、「相馬御風」の名前を挙げていることが、期せずして夢二、御風、たまきが当時よく顔を合わせていたことを語ってくれているようである。

by kaguragawa | 2015-02-17 23:40 | Trackback | Comments(4)

夢二――飄然富山市に(1915.1.14)   

 100年前(1915.1.15)の新聞(富山県内発行)の一部を書き写しておきます。 ※句読点を補いました。
 ただし、これは私が数年前にメモしたものの断片で、書き写した新聞が何新聞なのかもわからず、自分の書いた字に読めないところもあるという、なさけないものです。
(ここに古いメモから書き写した記事が、何新聞のものなのか、確認できた時点で、報告をすることにします。)

東都の青年画家竹久夢二は、既報の如く、去る十四日飄然富山市に来り、親戚なる水上医師を訪づれ、当日午後二時四十二分泊駅下り列車にて兼ねての希望通り、小川温泉に赴けるが、同町の旧友たる松田新右衛門及び黒沢黒東外数名は大吹雪を犯して停車場まで出迎え、直ちに新町なる松田邸に赴き、新たに入り来りし横関東大菅等の同趣味の人と共に小宴を開き、九時頃小川温泉に赴き鬣山閣の三号室に入れり

 ここに書かれているように竹久夢二(本名:茂次郎)は、100年前の今日(1915年1月14日)に、富山の駅に降り立ち、翌15日には早稲田実業時代の旧友をたずねて県東部の下新川郡泊町に向かいます。このときの富山行(1月~3月)については、折々、報告することにします。

by kaguragawa | 2015-01-14 20:06 | Trackback | Comments(0)

無知ゆえの周章狼狽と驚天動地   

(1)
 ごていねいにも、今日〔10月6日〕が西出朝風の誕生日ですよ、と教えてくださった方がある。この方は、いつぞや私がこのブログに朝風の誕生日が8月1日だと書いたことを見つけられて、ご意見番?としてご注意くださったようである。

 で、ちょっとあわてました。西出朝風のことは、夢二との関連だったかと思うが書いた記憶があったのですが、朝風の誕生日まで書きこんだ記憶は無かったからである。確認してわかった。なんと、4年前に書いた《8月1日――犀星と賢治の生誕の日に》の項に、“夢二の世話をした西出朝風――彼も八朔の生まれ――はなんとこのとき千日町に住んでいて犀星の近くにいたのです。”の文章があるのだ。もう完ぺきに忘れていたのですが、確かに、私が書いた文である。

 そして、「西出朝風」を検索してみてもう一度あわてた。web上にある情報は、どれもが、朝風の生誕の日を〔10月6日〕としているのだ。朝風誕生=8月1日説?は、私の勘違いなのであろうか。とすれば、私はそんな誤説をどうやってでっちあげてしまったものなのか?。e0178600_17123698.jpg

 私のあわてふためいたドタバタは、割愛させていただいて、私の情報の出処だけを書いておきます。
 “西出朝風は明治十八年(一八八五)八月一日(戸籍上、自称は明治十七年十月六日)、父西出孫一、母エキの長男として石川県江沼郡大聖寺町字耳聞山百廿一番地(現在の加賀市大聖寺耳聞山121―1)に生まれた。”   〔敷田千枝子『口語歌人 西出朝風』(2007.10/短歌研究社)*1〕

 敷田さんご自身は――その根拠を書いておられないのが残念ですが――戸籍上の8月1日を西風の誕生日として扱っておられることが、この本の他の個所の記述からうかがわれるのだ。私の記述も、この敷田さんの敬すべき労作に信を置いているとだけ書いておきます。

*1『口語歌人 西出朝風』の表紙絵は、夢二が朝風の三女・早月さんが生まれたとき(1922)に祝いに送ったもの。エンドウのさやから女の子が顔をだしている。


(2)
 そんなことから発して、これもにわか勉強の経緯は割愛させていただくが、あの函館市街地の夜景をみるスポットとしても有名な「函館山」が「西出山」と呼ばれていたことも知って、これはひっくり返るほど驚いた。この山が、西出孫左衛門の持ち山だったからだというのだ。
 歌人の西出朝風は知らなくても、北前船主としての加賀橋立の西出家とその歴代の西出孫左衛門の名をご存じの方もあろうし、西出家と函館や小樽の関係も歴史家の方には周知のことなのだろう。私など堀田善衛のこれも北前船の廻船問屋堀田善右衛門商店のことを少し調べて知るようになって、橋立の西出孫左衛門家や瀬越の広海二三郎家のことも少し知るようになったのだが。
 それにしても「函館山」ひと山を所有していたという――正確なところはきちんと確認したいと思っていますが――北前船交易のとてつもなさと、それと同義でもある歴史のとてつもなさには、驚きいるしかないのです。

by kaguragawa | 2014-10-06 22:00 | Trackback | Comments(0)

明治9年の岸六郎の動向   

 今日は岸他万喜の命日。命日にちなんで、最近、明治9年のある史料のなかに見つけた他万喜の父・六郎のある動向を紹介しておきます。

(明治九年)五月四日
 午後十時出区、笠間君改正所へ出役、昨夜高岡会所より石川県官員新川県事務引き受けに今夜高岡泊りにて明五日当所御通行にて富山へ御出之由報知其名簿如左
 元新川県事務引受として出張官員

権令 桐山純孝

(第一課から第六課の官員15名の名前省略)
裁判所
 四課兼八等  津田弘
 中属     秋山恕明
 少属     岸 六郎
 十二等    米林貫一
 権少属    安達正輝
 
 通計二拾一名


 この史料は、直前まで新川県であった現在の富山県の県域全体が石川県に統合〔1876(明治9)年4月〕されたことに伴い、石川県の官吏団が事務引受のため富山に向かうことになり、その道筋の村役人(第十四大区副区長)にその知らせがきたことを記録した一節です。
 この史料は、六郎が富山の地に司法官として赴任したのが――明治16年(林えり子『竹久夢二と妻他万喜』。なおこの年、富山県が石川県から独立)ではなく、――新川県が石川県に統合された明治9年であることを示唆しているのではなかろか。それは岸六郎が、現在の金沢市域に生まれた士族(元加賀藩藩士)であることを考えれば、自然なことであるとあると思うのですが・・・。

 なお、引用した史料(日記)は、当時第十四大区副区長を務めていた中老田村の海内果が記したものです。

〔追記〕
 今日は、台風8号の影響で、沖縄や信越地方でもの凄い量の雨が降り被害をもたらす一方、北陸地方は、朝からフェーン現象の暑い一日でした。とりわけ富山は37.1°の全国最高気温を記録しました。その中、他万喜のねむる浅岡家――他万喜の長女の養子先――の墓参に(富山市長岡霊園)。

〔追記:7.12〕
 Iさんから『原資料に官員と書いてあるものを、かぐら川さんは「司法官」と書いておられますが、彼らは「行政官」であって「司法官」ではないのではないでしょうか。』と、お尋ねというより詰問?をいただきました。さすがIさん、当時の判事職も、「行政官」です。そこに名前の挙がっている「津田弘」が“四課兼”と記されていることもふくめ、この点、別項で、少し書いてみたいと思います。

by kaguragawa | 2014-07-09 22:50 | Trackback | Comments(0)

「オララ」のこと・・・(1)   

e0178600_22394813.jpg 今日、ある雑誌のページを繰っていたら突然、「オララ」の文字が目に飛び込んできました。

 その雑誌とは『高志人』。翁久允がつくった郷土文化誌だ。なんと、その「創刊号」(昭和11年9月号)の広告欄に大きな「オララ」の文字が。
 「祝 発刊」の文字でもわかるように明かにお祝儀広告である。

 翁久允と浅岡敏子――。この先に、竹久夢二と岸他万喜がいるのですが、それにしても、翁と浅岡の取り合わせ、不思議と言うか絶妙というか・・・。

 オララの所在地も創業年時も正確にはわからなかったのですが、貴重なヒントとなりました。

by kaguragawa | 2014-07-05 22:42 | Trackback | Comments(0)