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「奈古浦丸」のこと   

 「奈古浦丸が撃沈された!」――この報が日露戦争が始まったばかりの当時の日本国民に大きな衝撃を与えたことを知ったのは、三島霜川の「荒浪」によってである。

 しかし、ずっと気になっていた――富山県内の古い地名を負っている――この「奈古浦丸」という船名から奈古浦丸のことを調べてみようと思ったのは、これも富山県内の古い地名を負っている「射水丸」のことを調べたことがきっかけでした。

 詳細は省きますが、「奈古浦丸」はやはり富山ゆかりの船でした。e0178600_23273739.jpg
新湊の廻船問屋に生まれた南嶋間作が、ドイツで建造された艦長53メートル/1084トンの大型汽船を購入し「奈古浦丸」の名をつけたのは1891(明24)年のことという。海運業の近代化が念頭にあってのことだ。それは、伏木の藤井能三や堀田善右衛門(善五郎/堀田善衛の祖父)の動きと同じものである。
 そして奈古浦丸は、日露戦争時その初っ端に伏木港から小樽に向かっている途次、酒田港を出た直後、ロシア海軍ウラジオストク艦隊によって撃沈されたのである。1904(明37)年2月11日のことだという。
(新湊は現:射水市、伏木は現:高岡市。当時はともに射水郡で、河口港であった伏木港の左岸が伏木町、右岸が新湊町であった。)

 ・・・と、ここまでは前書きである。知りたいのは、この新湊の南嶋家の持ち船「奈古浦丸」の乗組員の写真がどうして『堀田善衞展――スタジオジブリが描く乱世』(〔編集〕財団法人神奈川文学振興会・スタジオジブリ/〔発行〕県立神奈川文学館/2008.10)に掲載されているかである。

 堀田家と「奈古浦丸」とはどんな関係にあったのか?。そのことの説明を欠いた「奈古浦丸乗組員」の写真がどうして「堀田善衞展」の図録に載っているのか?。

 ご存じの方からのご教示をいただければ有り難い。

by kaguragawa | 2013-08-01 22:27 | Trackback | Comments(0)

堀田善衛、七夕に生まれる!?   

 先日(7月17日)、「堀田善衛、生誕の日」という記事を書いたところ、「堀田善衛の誕生日は《7月7日》でしょ」、というご指摘(お叱り?)を受けた。“あの”ウィキペディアに「7月7日」とあるのに、それに異議を唱えるのか・・・というわけである。

 何も、異議を唱えるつもりはなかったのだが、不用意にも記事を書く前に「ウィキペディア」を参照しなかった不手際?は認めざるをえない。事前に確認しておれば、『「ウィキペディア」には7月7日になっていますが・・・』と、付け加えることができたからだ。

「ウィキペディア」には、こう記されている。

 堀田 善衛(ほった よしえ、1918年(大正7年)7月7日 - 1998年(平成10年)9月5日)は、日本の小説家。富山県高岡市出身。 (2013.7.25現在)

 《7年7月7日》。7が3つも並んで、なかなかに見栄えが良い。善衛さん、七夕の生まれなのだ !。

 正直に書いておけば、私自身、堀田善衛の戸籍(除籍謄本)を実見したわけでもない。まして、堀田善衛さんの誕生の場に居合わせて、事実を語れるような縁続きの人間でもなければ、100歳近い老人でもない。私の7月17日説には、何の実体的根拠もないのである。
 故に、堀田善衛の生まれた日をご存じの方は、名乗り出て、真実を教えてくださいとお願いするしかないのである。

 では何を根拠に、私が《7月17日》を堀田善衛の誕生日としているかだけを書いて、お叱りへの弁明にしておきたい。

 1.最新の年譜である「堀田善衞年譜」(『堀田善衞展――スタジオジブリが描く乱世』(〔編集〕財団法人神奈川文学振興会・スタジオジブリ/〔発行〕県立神奈川文学館/2008.10)に「7月17日」とある。
 2.多少古いものの、『日本近代文学大事典(第3巻)』(1977.11/講談社)、『日本現代文学大事典(人名・事項篇)』(1994.6/明治書院)という二つの基本的な参考図書にも「7月17日」となっている。
 3.繁雑になるので列挙は避けるが、今回(具体的には昨日)あらためて閲覧しえたいくつかの(いくつもの)文学全集にもすべて「7月17日」となっている。
 註.第一に参照すべき『堀田善衞全集』は、怠慢の誹りを甘受するが「第一期」「第二期」とも持ちあわせがないので、まだ確認しえないでいる。近日中に、追加報告をしたいと考えています。

 戸籍(除籍謄本)も『堀田善衞全集』をも参照していない不十分さにもかかわらず、《7月17日》を「堀田善衞、生誕の日」と書いたのか、についてもう一言つけくわえるならば、上記1.の『堀田善衞展――スタジオジブリが描く乱世』という堀田善衛展の図録に、昭和二十二年一月四日付けの「引揚証明書」という公的書類の写真版が掲載されていて、ここに「氏名 堀田善衞(大正七年七月十七日生)/本籍 富山県高岡市伏木本町三八番地」と記されていることに拠ったと、いうことだけは明記しておきます。


〔追記〕
 上記の1.2.3.のすべてに堀田善衛の就学した小学校を「伏木尋常小学校」とされていて、少なからず驚きました。これは「伏木尋常高等小学校」に訂正されなければなりません。伏木尋常小学校は、1905(明38)年に伏木尋常高等小学校に改称していることが記録にあきらかだからである。
 ついでに言うと、こうした事項につき、残念ながら文学全集などの年譜にも誤りが散見される。小学校令の改正によって尋常小学校と高等小学校の併置ができるようになった1900年以後、どんどん尋常高等小学校化が進められ、義務教育6年制(1907)を準備したという教育制度史上のことがらに、クロノロジストたらんとする者は、きちんとした目配りをしたいものと自戒を込めて思います。

〔追記:2013.08.20〕
 堀田自身の記述にも、《7月17日=誕生日》は登場する。

『オリーブの樹の陰に――スペイン430日』(1980.6)

一九七七年七月十七日(日)
 朝から素晴らしい天気である。
 今日、小生六十歳の誕生日である。(中略)
 この日記は七月十七日から書き始めたものであったが、少しさかのぼって埋めていくことにする。

(1978)七月十七日(lunes)
 小生六十一回目の誕生日なれど、わが生涯にもっともアツイ誕生日なり。
 代々木の娘より電話。(中略)この電話で筑摩書房倒産とのこと。参った、参った。


『誰も不思議に思わない』(1989.10)

 水上氏がふと、
「ぼくは大正八年生れで、もう七十歳だ」
 と言った。
 私は驚いた。驚いたと言う以上に、それは一種のショックであった。私自身、来たる七月十七日に七十歳を迎えるについて、意識、無意識の双方の境界で、おそらく七十歳という、人生の一つの期を迎えるための、心の用意のようなものをしていたせいであろう。不意を衝かれるとはこのようなことを言うのであろうか。途端に私は、
「僕が大正七年、一九一八年生れで、まだ七十歳になっていないのに、大正八年生れの君が、もう七十歳とは何のことだ?。」
 と思わず叫ぶように言ってしまった。
(中略)
 憮然として七十歳。
 人は古稀などというが、何が古稀なものか。漢詩でも書くか。

by kaguragawa | 2013-07-25 23:59 | Trackback | Comments(0)

堀田善衛、生誕の日   

 95年前の今日〔1918(大7)年7月17日〕、我が富山県の港町・伏木(高岡市伏木地区)はどんな天候だったのか・・・。最近の猛暑や豪雨を思うにつけ、ちょっと気になり、調べてみました。一世紀近く前の一地区の天候がわかるのか、と思われる向きもおありかと思いますが、当時、伏木には「測候所」があり、幸いなことにこの地区の当時の気象記録が残っていて、それをweb上で見ることもできるのである。
 (この伏木測候所は、同地の廻船問屋の当主・藤井能三よって1882(明15)年につくられた私設の!測候所。1887(明20)年に富山県に移管。なお1918(大7)年当時の所長は、――3年後〔1921年〕台風来襲に際し警報発令の不手際の責を一身に負って自死した――大森虎之助氏。参照:新田次郎『迷走台風』)

 その伏木測候所記録によれば、95年前の《7月17日》――伏木のこれも廻船問屋・堀田家の三男として生を享けた堀田善衛の生誕の日――は、「晴れ」だったようである。が、翌18日には57ミリの雨量が記録されていてかなりの雨量である(実はこの日が7月の最大雨量を記録した日)。それも明け方から昼前に集中して降ったようである。前日の16日にも22ミリの雨量が記されているから、堀田善衛の生まれた17日は梅雨明け前の不安定な天候の「晴れ」のなか日だったようなのである。

 そしてここからは余談。堀田善衛の生まれた数日後に、伏木の港に招かれざる?一隻の汽船があわただしく来船した。越中の女一揆とも呼ばれた「米騒動」勃発の渦中にあった伊吹丸が、積みこむはずの米を積まずに(積めずに)、魚津から伏木に緊急避難?!したのである。

 県東部の港で米の積み出しを阻止しようとして起こったこの年の米騒動は、県西部の米の積み出し港であった伏木にも飛び火したのであろうか。そんなことも堀田善衛の米騒動への言及と併せて掘り起こし、いつか書いてみたいと思っています。

by kaguragawa | 2013-07-17 22:36 | Trackback | Comments(0)

堀田善衞の「金沢」   

 堀田善衞に、「金沢にて」(1959)というエッセイがあります。堀田善衞は冒頭に金沢の想いをこう書いています。

 日本のはげしい変わり方のさ中で、さほど変わり方のめだたぬ町をあるくことは、あるくその当人に、種々入り組んだ感想を与える。ましてその当人が、むかし住んでいて、物心つくについて深いものを与えられたとなれば、なつかしさはひとしおであり、まるで自分自身を見るように思う。

 堀田が金沢について「物心つくについて深いものを与えられた」、「まるで自分自身を見るように思う。」と、書いているにもかかわらず、「堀田文学にとって金沢は何であったのか」というテーマで論じられたことは無いのではなかろうか。
 が、私にはずっと、堀田善衞にとっての「金沢」が気になっているのです。もちろん「堀田文学にとって・・・」などという大問題を論じようという気持ちはさらさらないので、堀田善衞が金沢にいた旧制の金沢二中時代の足跡を少しでも掘り起こすことができないかという気持ちなのです。

 ある縁があって、今あらためて、この私の「気懸り」を、少しときほぐしてみよう、少し探ってみようと思い始めました。あまり読まれていない二つのエッセイ「金沢にて」(1959)「金沢風物誌」(1968)を紹介することから初めて、堀田善衞の金沢時代の諸相などと折を見て、書いていきたいと思っています。

by kaguragawa | 2013-05-13 21:02 | Trackback | Comments(0)

高橋治『人間ぱあてぃ』   

 最近は読む機会もなく時を過ごしていますが、高橋治さんのファンである。きょう立ち寄った金沢駅の古書店で、『人間ぱあてぃ』の単行本(初版本)を見つけ、なんと200円の値段に迷わずにレジへ向かった。某書と併せて、955円。5円!のお釣りである。この本は、まちがいなく文庫本で買ってもっているのであるが。
 家に帰ってから文庫本を引っぱりだしたらこれも初版で、1992年のもの。たしか、発行されたものを書店で見つけてすぐ買った記憶があるので20年前のことである。そのときの記憶として、あの宮本憲一さんが高橋治さんと四高(第四高等学校)の同期だというのに驚いたことだけが浮かんできたのだが、単行本を列車内で開いたら目次に堀田善衞さんの名前があり、まずそこのページを繰った。20年前には我が郷土出身の堀田なにがしさんの名は知っていたものの興味はまったくなく、読み飛ばしたのではなかろうか。車中で、高橋治の語る堀田善衛に惹きこまれるように読み、なぜか涙のうかぶのを覚えた。

 高橋治と堀田善衞という――私にとって――意表をつく組み合わせに、ビッと心を動かされたのに続いて、いかにも堀田善衞としか言いようのない人物が逗子におり、パリを歩き、沈黙で語っているのである、高橋治のみごとなペンの魔術で。

 そう言えば、宮本憲一さんは、お元気なのだろうか。

by kaguragawa | 2013-02-10 19:06 | Trackback | Comments(0)

東京の馬場邸の主の名が・・・   

 今朝の北日本新聞は、一面のトップに「旧馬場邸富山移築を」との見出しで、東京新宿区にある今使われていないある公邸を富山に移築する計画を報じています。
 “旧制富山高校(現・富山大学)の創立に尽力した馬場はるが昭和初期に長男の住居として東京都新宿区に建設し、戦後は最高裁判所長官公邸として利用されていた和風邸宅を県内に移築する計画が浮上している。” 
 日本近代建築の代表作の一つといわれている新宿区にあるこの「旧馬場邸」――新聞に所在地は伏せてありますが、神楽坂脇の若宮町で、東京へ行くたびにいろんな建築物を見て歩いている私もまだ足を運んでいないものなのですが、――について今ここで書こうというのでもなければ、日本海交易に活躍した北前船五大船主といわれた廻船問屋の馬場家のことや、馬場家とこの建物を設計した吉田鉄郎の知られざる?関係を書こうというのでもありません。
 この旧馬場邸移築の新聞記事には省略されたある人の名が朝から気になってしかたがないので、そのことを書いておきたいのです。

e0178600_23244877.jpg 上に引用した記事中に登場する“馬場はるの長男”。この方の名前がなぜか新聞には書かれていませんが、馬場正治氏です。それがなんと、この方の名前を一昨日、あるところで見たばかりなのです!。しかも堀田呉吉と並んで彫り込まれている馬場正治さんの名前を・・・。
 この正治さんの生没年など確認しようと思っていた矢先に、正治さんの元住居のことが地元紙のトップに出ていたので驚いたのです。
 堀田呉吉さんと馬場正治さんの名前を見たのは、きのう紹介した稲垣示翁之碑の左下脇にある多くの寄進者名を記した碑の中なのです。私がなぜ興奮気味にこの二人の名前を繰り返し書いているのかを説明しようとすると、面白くもない話を延々としなければならないので割愛するしかないのですが、明治大正期の富山人のネットワークが見えてくるからなのです。
 そんなことも、追い追い、書いていきたいと思っています。


〔追記〕
 あまりにも説明不足なので、《堀田呉吉》の名が登場する旧日記〔2007.8.14〕を一部引用しておきます。堀田呉吉というのは作家・堀田善衞氏が「私の曽祖父の本名」と語る人物なのである。

『堀田善衞集――戦後文学エッセイ集11』(影書房/2007.4)
 この『堀田善衞集』中の「二葉亭四迷氏と堀田善右衞門氏」というエッセイに関わることがらについて、忘れないうちにメモ書きをしておきたいと思います。
 それは、二葉亭四迷が使っていた住所録に「堀田善右衞 同呉吉」という名前が出ていることについての照会に、堀田善衞氏が答えるところから始まっています。

 “この堀田善右衞という名は、徳川時代から北陸は伏木港で北前船による廻船問屋業を営んでいた、私の家の家長が代々継いで来た名前であった。廻船問屋としては、鶴屋という商号も持っていたから、鶴屋善右衞門と呼ばれたり、書かれたりしたこともあった。(中略)そうして、二葉亭四迷の知人住所録に、呉吉とあるのは、私の曽祖父の本名であった。”
 “けれども、私に言えることは、実は以上、これだけなのであって、これ以上のことも、これ以外のことも、何も言うことができないのである。ましてや、二葉亭四迷の住所録にどうしてわが祖先の名が出て来ているものか、とは、推理することもほとんど不可能である。”

 ふむふむと読んできて、びっくりしたのが、次に《稲垣篤》の名前を、やはり、二葉亭四迷の住所録から堀田善衞氏が出してこられたからである。


by kaguragawa | 2012-01-04 23:11 | Trackback | Comments(2)

堀田勝文氏について   

 堀田善衛の父「堀田勝文」についてまとまった記述があったので書き写しておきます。

 高岡市吉久の野口家に生まれた堀田勝文(明治18年~昭和27年)は、明治44年、伏木(高岡市)の廻船問屋「鶴屋」の堀田善右衛門の養嗣子になった。昭和8年から13年まで伏木町長を務め、伏木港の整備に尽くした。さらに同17年再度町長に選ばれ、同年高岡市への合併を実現させた。昭和9年には県会議員の補欠選挙で選ばれ、同22年まで3期13年間県会で活躍した。同15年から17年まで、議長を務めている。伏木石炭社長、伏木商工会長、県商工会連合会長まどを務めた。
 
 『富山県姓氏家系大辞典』(角川日本姓氏歴史人物大辞典16/角川書店/1992.7)533P

by kaguragawa | 2010-05-23 20:07 | Trackback | Comments(0)

5月1日 上海   

 上海万博が開幕。特別の関心はないのですが、「万博」という“仕掛け”がどのように世界の歴史に関わってきたのかには興味があります。
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 それより「上海」と聞くと、読みさしのままになっている堀田善衞さんの『上海日記――滬上天下一九四五』のことを思い出します。
 2年前に公表された堀田善衞27歳のときの日記〔1945年8月6日から46年11月まで〕です。

 最近いろんな刺激を受けながら読んだ岩波新書『日本の近現代史をど見るか』の第5章「一九三〇年代の戦争は何をめぐる闘争だったのか」(加藤陽子稿)末尾の「お薦めの五冊」の1項にも「時間」とともに「上海日記」が取り上げられています。書き写しておきます。

 堀田善衞「時間」(『堀田善衞全集』<2>(筑摩書房、一九九三年)所収
  一九二七年一二月の南京事件に至る過程を、包囲される側の中国人の眼を通して描いた小説。堀田は、国際文化振興会史料室員として太平洋戦争の敗戦を上海で迎え、対日文化工作のため中国国民党に徴用されるという稀有な経歴を持つ人物です。『堀田善衞 上海日記』(集英社、二〇〇八年)には日中戦争の特質についての注目すべき明察がなされており、こちらも併読をお勧めします。

by kaguragawa | 2010-05-01 23:13 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

射水郡郡長・南原繁と射水の人・堀田善衛   

 ある偶然を、どのように私のなかで居場所を見つけ、落ちつかせてやればいいのか、を――戸惑いというかちょっと心嬉しい思いももって、――思案しています。

 先日、堀田善衛展に行こうとした私の背後から、“ちょっとちょっと”と、声をかけたのは堀田氏と同郷の藤子不二雄氏だったのですが、(堀田氏の生まれた伏木は、安孫子素雄氏の生地・氷見と藤本弘の生地・高岡の中間)、堀田氏が藤子不二雄の生んだ“オバQ”についてユニークな取りあげ方をしていること知って、いよいよ興が深まってきました。そんなことを書こうかと思っていた矢先、“おい君、おい君”と声をかけてきたもう一人の人物がいました。
 一昨日、話題にさせていただいた戦後のこの国の在り方にも大きな影響を与えた政治学者・南原繁氏です。

 堀田善衛氏の生地は、たとえば簡単なものでは、富山県高岡市生まれとなっていますが、氏の生誕時点【1918〔大正7〕年】でいえば「富山県射水郡伏木町」です。この伏木町は、1942(昭和17)年4月、善衛氏の父君勝文氏らの働きかけで高岡市に編入合併されたのですが、上に書いたように善衛氏が生まれた1918年当時の伏木町は射水郡内の4町のうちの一つだったのです。
 なんと奇しくもこのとき射水郡の郡長だったのが、南原繁だったのです。

 大学を卒業して間もない南原が内務省の官僚として、「郡長」を志望し、富山県の射水郡に郡長としての職を得て赴任したのは今から93年前の今頃、1917年3月。南原は単に役人の一履歴として日本海にのぞむ寒村ならぬ寒郡の郡長を無難に事無く勤めたわけではありません。内村鑑三の弟子として理想の種子をこの地にいくつも残していったのです。そのことは別の機会にふれるとして、射水郡が南原のもとで大きくその内実を変え始めようとしていた1918年7月に、射水郡下の伏木町に堀田善衛は生まれたのです。この偶然は、のちに、敗戦をまじかに見据えていた時期、30歳の年齢差もあり置かれた環境も大きく違うなかで、ともに敗戦によってしか日本の再生はないと模索していた偶然をも思い起こさせてくれるものです。

 余談ですが、郡長として伏木を訪れた南原繁と彼とほぼ同年であったはずの堀田勝文――善衛氏の父・勝文氏の生年をまだ確認できずにいるのですが、彼(当時、野口勝文)と小泉信三が慶應大学で同窓だったということからの推測ですが――とは、何度か会い若者らしい理想をもって伏木や射水の未来について意見を交わしたのではないか、と想像するのですが、どうでしょう。

 ・・・というわけで、いくつかの偶然を、どのように私のなかで居場所を見つけ、落ちつかせてやればいいのか、楽しく思いを巡らしているのです。

by kaguragawa | 2010-03-03 23:19 | ひと | Trackback | Comments(3)

藤子不二雄の住居跡辺りを歩く   

 堀田善衛展の帰り道、定塚小学校近くの町の食堂という雰囲気のうどんやさんに入ったのは1時半少し前だったでしょうか。テレビではカーリング女子のイギリス対日本の試合が実況中!。このけったいな(失敬)スポーツ、ルールを聞いてもよくわからない・・・。と、思っていたのですが、今日は違いました。試合の展開が手に取るようにわかり、かなり年配のお店のご主人も奥さんも、客が私一人だったこともあり、手を休め客席にかけてテレビの画面に釘づけ。私の方も食べ終わった後も惹きこまれて席を立てず、繰り出されるミラクル・ショットの応酬を観戦させていただきました。

 まさか試合終了まで見続けるわけにもいかず、第6エンドの区切りで、奥さんに声をかけました。勘定を済ますと、このタイミングでどうかなと迷いながらも、当初からのねらいであった“ある質問”をしてみました。「この近くに藤子不二雄さんの生まれた家があるって聞いたんですが、どの辺りですか?。」
 このお店の雰囲気からある程度予想していた答えが返ってきました。「よう聞かれんがやけど、なーん知らんがいちゃ。たしかこの向こうの通りだと思うがやけど。」そして、「あんた、知っとっけ?」とご主人に。ご主人も「やっ、知らんじゃ。」
 (「追記」私が生家跡と思っていた定塚町旧4丁目は、小学校時代を過ごした場所ではあるようですが、生家跡ではないようです。)

 店内には藤子作品のキャラクターなど見当たらず、このご夫婦の無関心ぶりは予想でき、うまく言えませんがそれが私にはなんとく嬉しくもあったのですが、さらに私を嬉しくさせ、わくわくさせてくれたのは、奥さんの次の一言でした。おつりを手渡しながら奥さんは私より先に店から半身を出して、「向かいのNさんに聞いてみたげっちゃ。NさんとこのAさん、藤子さんと同い年だからね。」
 先にご夫婦の無関心と書きましたが、それは一見の観光客、物好きと違う、近所なればこその平常であり、もちろん無視ではなかったのです。「Aさん前にテレビにも――(注)もちろん藤子不二雄関連の番組でしょう――、出とらはったからね。」
 ここで、念のために書いておきますが、ここで藤子不二雄と書いているのは、〔藤子・F・不二雄〕こと“藤本弘さん”の方です。

 というわけで、藤子不二雄の住居跡と思われる場所を確認し、古い屋並みも少し残る定塚町をぬけて高岡駅に向かったのでした。近所に声をかけ、途中まで案内してくださったA食堂のおばちゃん、有り難うございました。

 〔追記〕
 たとえば「藤子不二雄+定塚町」で検索すると、住居跡?の写真などいくつも見ることができ、どのサイトも(わりと新しい記事も)場所を「定塚町4丁目」としています。が、かなり前に、この辺りは丁目表示がなくなって――町内会組織としては旧丁目は生きているはずですが――現在地は、「定塚町6番●号」という住居表示となっています。(余談ですが、実はこの辺りは幼少の頃遊んだことのある個人的に思い出のある土地です。が、食堂のおばちゃんおじちゃん同様藤子さんのことは意識したことはまったくなかったのです。)

by kaguragawa | 2010-02-20 23:42 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)