人気ブログランキング |

タグ:堀田善衞 ( 33 ) タグの人気記事   

堀田善衛を読む会第8回例会   

第8回例会は、『インドで考えたこと』

★と き:5月23日(土) 午後1時半~4時半
☆ところ:金沢大学サテライトプラザ(金沢市西町教育研修館内)

by kaguragawa | 2015-05-20 22:49 | Trackback | Comments(0)

堀田善衛を読む会第7回例会   

第7回例会は、『海鳴りの底から』

★と き:3月28日(土) 午後1時半~4時半
☆ところ:金沢大学サテライトプラザ(金沢市西町教育研修館内)サロン

『海鳴りの底から』は、1960年〜61年の『朝日ジャーナル』に連載された「島原の乱」をテーマにした作品。


by kaguragawa | 2015-03-21 20:02 | Trackback | Comments(0)

善衛と功芳の語る「舞踏会の手帖」   

 先日来、堀田善衞の語るフランス映画「舞踏会の手帖」の周辺をうろうろしていました。とてもとても映画通とは言えない私のことですので、堀田の『橋上幻像』を読むまでは「舞踏会の手帖」の名は知りませんでした。にもかかわらず、不思議なことに堀田が紹介する「舞踏会の手帖」の展開を読みながら、この話、どこかで聞いた?読んだ?という気がして仕方がありませんでした。

 きょう、ある本を探していたとき宇野功芳さんの『いいたい芳題』が目についたので、就寝時に快眠剤替わりに読もうと手にとったのが、運のつき?、ついつい読みだしてしまいました。そしてびっくり!。なんと、このエッセイ集のなかに「往年の名画『舞踏会の手帖』」という項があったのである。もちろん、これは何回か読んだものだ。なんのことはない、「舞踏会の手帖」という映画のタイトルは覚えていなかったもののこのオムニバス映画の構成や展開はここで読んでいたし、監督のデュヴィヴィエの名前もここで目にしていたのだ。

 私の記憶の粗放さ?については今更縷々述べない。そんなことより作家の堀田善衛がこの「舞踏会の手帖」の特徴的なワルツについて語っている一方、音楽家の宇野功芳は、登場人物の名まで挙げて細かに映画の内容を語っているところがおもしろいのだ。
 もちろん宇野がこの映画の音楽にふれてないわけではない。宇野は譜面も掲げてこう書いている。
 “クリスティーヌは幻滅して湖のほとりの大邸宅に帰ってくるが、この湖の幻想的な美しさは言語を絶する。コモ湖でロケがおこなわれたということだが、湖を表すという主題曲とともには何度見ても胸がいっぱいになってしまう。”

 文末に、『舞踏会の手帖』のDVDのデータが載っているで、今も入手できるのかは未確認だが、、写しておきます。     *『舞踏会の手帖』〔アイ・ヴィーシー IVCF2027〕(DVD)

by kaguragawa | 2015-01-23 00:03 | Trackback | Comments(0)

「堀田善衞を読む会〔4〕」余録   

 今回(第4回:09.27)のテキストは、『橋上幻像』の「第二部 それが鳥類だとすれば」――。

 以下、この「第二部」の次の一節に関した余録です。

 “男は、その映画について、つけ加えて言った。あの頃、自分は若かった。ほんの二十一か二かの大学生であった。そのせいがあったかもしれなかったが、この映画には心から感動し、とりわけて未亡人の息子が舞踏会にデビュするに際して、そのワルツの音楽が、未亡人の心を透かして見せ、彼女を過去へ過去へと誘い込むかのように、普通のワルツのリズムとはリズムを逆にして演奏されていた。普通ならば、ワルツは、強、弱、弱として演奏される筈のものが、弱、弱、強というふうに、時間の進行を逆にしていたことが、いま印象にのこっている、つまりは、ワルツの音楽は時間をむかしへむかしへと送りかえしていたのだ、と。”

 本文には、この「男」が“ほんの二十一か二かの大学生であった”時に感動したという映画のタイトルは明記されていませんが、それは読書会で説明されたように、『舞踏会の手帖(Un Carnet de Bal)』というフランス映画(1937、監督:Julien Duvivier)であることはそのストーリーからいっても間違いのないところでしょう。ここで私が注目したいのは、“普通ならば、ワルツは、強、弱、弱として演奏される筈のものが、弱、弱、強というふうに、時間の進行を逆にしていた”という映画中のワルツのことです。といっても、この不思議なワルツそのものに興味を惹かれたのではなく、そんな曲がほんまにあるんかいな?、堀田さんもようやるな、との思いでこの一節を読んだのです。つまり、ワルツの音楽は“時間をむかしへむかしへと送りかえしていたのだ”というフレーズを導くための「作り話」といって悪ければ「潤色」として書きこまれたものと思い、巧みな音楽技法を話題に持ちだすという堀田善衛の巧みな話術に感心してしまったのでした。

 「読む会」を終えて帰ってからもこの「ワルツ」のことが気になり、町内会の防災訓練などの合間に少し調べてみました。その映画中の曲(ワルツ)は、モーリス・ジョベール Maurice Jaubert (1900--1940)がこの映画のためにつくった「灰色のワルツ(Valse Grise)」でした。
 以下、堀田が「弱、弱、強というふうに、時間の進行を逆にしていた」と指摘した不思議な?ワルツに関するメモです。以外にも?!、堀田のワルツの記述は「潤色」どころか、堀田の鋭い「耳」の証左だったのです。(興味をもたれた方は、下記の部分をヒントに、みずからお調べください。)

 たとえば「灰色のワルツ+録音」や「灰色のワルツ+逆」などで検索すると、いろいろ書かれているものが見つかります。映画に使われたものは、逆再生と多重録録による斬新なもの――楽譜を逆から演奏したものを録音し、そのレコードを逆回転させて再生し、その録音の上にさらに弦(ストリングス)の音を重ねて録音して得られたもの――のように書かれています(なお、当時は磁気テープが録音メディアとして一般化される前だった)。そうした試みは、映画音楽史上というより、広い意味での音楽制作(創作)の歴史の上でも、ちょっと、画期になるような一つの事件だったようです。
 堀田がこうした裏事情をある程度知っていてあのように書いたのか、まったく事情を知らずに自分の感じた曲の特異性からあそこまで書いたのか、興味深いところです。いずれにせよ、この部分の記述は、堀田の音楽への関心をみずから踏み込んで開示した見過ごせない部分だといえるでしょう。

 こういったこともふくめて、「堀田善衛と音楽」についての、めくばりのきいた、しかも深く掘りさげられた論考が書かれたらいいなぁと、思うことしきり・・・です。

by kaguragawa | 2014-10-01 21:56 | Trackback | Comments(0)

 「堀田善衞を読む会〔3〕」余録   

 きょう、「堀田善衞を読む会」例会。

 今回(第3回)のテキストは『橋上幻像』の「第一部 彼らのあいだの屍」――。
 その場でのいろんな議論を思い出しながら、タイトルにもなっている“彼らのあいだの屍”そのものが議論の正面に出てこなかったなぁと考えながら、自分なりの読み深めの道筋をこの「彼らのあいだの屍」(という語)に沿って見つけたいと、今、考えています。

 ところで、この「堀田善衛を読む会」について、説明抜きで書き始めてしまったのですが、そして、なかなかに個性的な読み手が集っているこの「読む会」会についてはあらためて書きたいと思っていますが、今日の例会でちょっと驚いたのが、参加された皆さんが持参されたテキストの多くが、予想に反して?書き下ろしのかたちで世に出た新潮社の単行本(初版、1970)だったことです。

 そして、であればこの新潮社版『橋上幻像』の“高松次郎”の「装画」(カバー、とびら)をじっくり見つめる時間があっても良かったのではないかと、これも今になって思われてくるのです。

〔追記〕
 作品中で出会った私にとって初見であった「クチャ眼」と「底眼」という二つの「眼」のうち、「底眼」が、思いもかけず濱口國雄の詩集『地獄の話』に、その出所があることを二人の報告者のレポートで知ることができました。それだけでなく、今、これが単に特異な単語の出典の問題ではないということを「読む会」の皆さんと共有の認識としてもつこともできました。まだ3回目の例会を終えたばかりですが、議論とその咀嚼のなかでこうした堀田接近の大事な鍵をいくつもこの場で、共有できているのではないかと思えてきました。――次回は、9月。

by kaguragawa | 2014-07-26 22:12 | Trackback | Comments(0)

「トタン屋根を雪が滑り落ちるような・・・」   

 ことばの端々にひっかかる悪いくせがあります。「細かいことにこだわるな、大意をつかめ。」という趣旨の読書論が多くありますが、なんにせよ私は多いにこまかなことにもこだわって本を読むのを愉しみにしているのです。そんな私事はともかく、最近、あれっと思った片言隻句の例を堀田善衞『方丈記私記』の最初のほうから・・・・。

 “元来K君の家は、新橋の貨物駅であった汐留の、貨物の線路と向かいあった通りにあり、・・・”(ちくま文庫7p)

 《線路と向かいあった通り》とは?、

 “田園調布一、二、三丁目、東玉川町、玉川奥沢町などへ投下された焼夷弾は、あたかもトタン屋根を雪が滑り落ちるような、異様に濁った音をたてて落下して来、・・・”(ちくま文庫15p)

 《トタン屋根を雪が滑り落ちるような、異様に濁った音》とは?、といったたぐいのものです。

 上の例は、実際にK君――堀田のいう「K君」とは、詩人・小山弘一郎のはず――のお父さんの運送店の場所がほぼわかり当時の地図を見て、なるほど、と合点はしたのですが、下の例は、雪国・北陸に育った堀田善衛ならではの表現というべきなのでしょうが、残念なことにその同じ地域に生まれ育った私にもよくわからないのです。

 『方丈記私記』を精読?していたときから一か月以上もたった今頃このことを書くのは、つい先日、焼夷弾の投下(落花)についての別の、しかし、堀田の記述を思い起させる表現に出会ったからなのです。堀田の場合は1945年3月9日夜「東京大空襲」の折の記憶ですが、下の記憶は同年8月1日夜の富山大空襲の折のものです。

 “焼夷弾が落ちて来る時は。まるでどしゃ降りにでも遭った時のようにざぁっつという音を立てる。”

 この個所が堀田の雪の例を思い出させ、そういうことだったのかと思わせてはくれたのですが、堀田の核心にちかずくことを容易に許してくれないこの書物『方丈記私記』については、未だに得心のいっていないこの個所を含め、片言隻句にこだわって、折々、書いてみたいと思っています。

〔追記〕
 上に一部引用した富山大空襲のドキュメントについては、いずれ紹介したいと思っています。ぜひ多くの方に全体を読んでいただきたいと思っていますので、あらためて紹介します。

by kaguragawa | 2014-06-29 17:00 | Trackback | Comments(0)

初冬の伏木街歩き   

e0178600_1945949.jpg

 いろんなことが気になり、急に思い立っての伏木探訪とあいなりました。
 写真は、伏木近代化に先頭的かつ戦闘的役割を果たした藤井能三の銅像。能三は、堀田善衛の祖父・善右衛門(善五郎)と同年〔弘化三年(1846)〕の生まれ。
 伏木小学校敷地の一画、能三公園に、伏木港を望んで立つ。

 伏木小学校は、堀田善衛の母校〔当時は、伏木尋常高等小学校〕だが、能三像(初代)は、堀田善衞が入学する3年前の1922年に創校50周年記念として建てられた。シルクハットを右手に持つ初代の像は戦時中に台座(吉田鉄郎の作)を残して供出させられ、これは二代目(1952年)のもの。
 なお、堀田善衛が在学した頃の校舎(男子校舎)跡はグラウンドになってい、往時の運動場が現在の校舎になっている。初代の銅像は、この旧校舎の前に立っていた。

 
 午前中は小春日和の好天。伏木の高台から立山連峰も眺めたが、そのころ真砂岳では大きな雪崩が起きていたころだ。

by kaguragawa | 2013-11-23 19:47 | Trackback | Comments(1)

“三尖塔校舎”―旧制・金沢第二中学校   

 「金沢くらしの博物館」。〔金沢市飛梅町3-31〕
 (旧制)金沢二中こと「石川県立金沢第二中学校校(*)」の校舎は、1948年から1970年までは、金沢市立紫錦台中学校の校舎として、後は「金沢市民俗文化財展示館」(1978)を経て「金沢くらしの博物館」(2007~)となっている。1899(明32)年建設の校舎“三尖塔校舎”は、石川県有形文化財。

 *石川県第二中学校(1899)→石川県立第二中学校(1901)→石川県立金沢第二中学校(1907~)

 堀田善衛が在籍したのは、1931(昭和6)年から1936(昭和11)年まで。

 「紫錦台(しきんだい)中学校」の名は、下掲の金沢二中校歌中の「紫錦が陵(にしきがおか) 」によるという。
e0178600_22255088.jpg 

 金沢二中校歌

加陽の巽 神秀の
元気凝りて重む所
尖塔碧き雲に入る
紫錦が陵の学窓に
集ふ健児は七百人
翳す剛健質実の
旗章に梅の操あり

  作歌 川角捨兵衛
  作曲 大西安世




 なお、金沢二中は、1963(昭38)年、「石川県立金沢錦丘高等学校」が後継高となった。2004年(平16)年、「石川県立金沢錦丘中学校」の新設に伴い併設型中高一貫校となっている。

by kaguragawa | 2013-10-27 22:29 | Trackback | Comments(0)

海波為めに鳴り、白鴎為めに舞ふ   

 今から100年前(1913〔大2〕年)の庄川改修工事にともなう伏木港築港工事の竣工式典の後の関係者のみの祝賀会での総務委員長(代理)のあいさつ文を紹介します。これを述べたのは《堀田善右衞門》、堀田善衞の祖父(累代でいうと曽祖父)にあたる善右衞門です。 

 本日を卜(ぼく)し茲に本築港竣成祝賀会を開催するは洵に欣喜に堪へざるなり。
 今や本港は各般の施設完備し海陸連絡の便一層顕著を加ひ、物資集散の度、年と共に増大するに至れる為め、本港民の享受する余慶も亦随て往旧の比にあらざるなり。是れ偏に本築港の完成は邦家交通上の一大進展たるのみならず、一面地方に於ける人文の啓発と、経済上の発展とを促進せし動機たりしに外ならざるなり。故を以て昨は当築港事業に努力せられたる官民諸氏を招請して賀式を挙行し、今又本港に関係浅からざる紳士諸君と共に此空前の盛式を行ふ。海波為めに鳴り、白鴎為めに舞ふ。衷心洵に喜ひの情に堪へざると同時に本港開発の貢献者たる藤井能三君の如き、既に物故して此歓を倶にすること能はざるは頗る遺憾とする所なりと雖も、君の遺蹟は永く之を伝ひて本港の発展に資するや疑はず。
 惟ふに本港の前途は実に洋々たるものあると共に、此海陸の要衝に当れる本港民の責務も亦決して軽しとせず。希くは、本港の利用開発に尽されんことを一言希望を述べて式辞とす。


 工事の竣工は1912年でしたが、式典は明治天皇の崩御があり翌年の1913年10月3日に行なわれたようです。本文中にあるように伏木港の近代化に尽くした藤井能三――善右衛門とほぼ同年のはず――もこの式典を目にすることなく、この年の4月20日にみまかっています。

by kaguragawa | 2013-10-01 22:35 | Trackback | Comments(0)

堀田善衛の「現代音楽小論」   

 思いもかけないところで“深尾須磨子”に、――といっても須磨子本人にではなく、荻野綾子(太田綾子)に出会うことで――巡り合いました。

e0178600_23173795.jpg なんと堀田善衛が中学時代(金沢第二中学校5年時/1935)に書いた「現代音楽小論」の中です。ここに「大田綾子」(“大田”は“太田”の誤植/メゾソプラノ)が登場するのです。
 ジルマルシェックス(Henri Gil-Marchex)なんて名に出会うとも思ってなかったのですが。内海誓一郎や近年、舘野泉によって掘り起こされた石田一郎など山田耕作をとりまく若手作曲家の名も挙がっている。

 もちろん音楽好きの旧制中学生が書いた当時の音楽界をそのまま反映しているだけの背伸びした論考なのかも知れませんが、私には刺激剤がたくさんふくまれていて読みあきない青年堀田善衛の好論考でした。

*上の写真、男性はわかりやすいですね。左から山田耕作、北原白秋、三木露風。女性は、左端が荻野綾子、真ん中が深尾須磨子です。1919年の写真という。

by kaguragawa | 2013-09-06 22:42 | Trackback | Comments(1)