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真の作家であつた独歩氏は遂に死んだのか!   

 独歩の最期の身近にいた真山青果の当日の報告によれば;

 「国木田独歩氏は、今日――六月二十三日午後八時四十分、相州茅ケ崎南湖院第三病室に瞑目された。」

 この報は、もう翌日には東京の文人には知れていたようで(青果の報告に「諸方に打電す」とあるし、未確認だが第一報を載せた新聞があったようだ)、翌24日の啄木の日記に出てくる。
 “一人散歩に赤門の前を歩いてると亀田氏に逢つて、国木田独歩氏、わがなつかしき病文人が遂に茅ケ崎で肺に斃れた(昨夜六時)と聞いた。驚いてその儘真直に帰つた。
 独歩氏と聞いてすぐ思出すのは“独歩集”である。ああ、この薄倖なる真の詩人は、十年の間人に認められなかつた。認められて僅かに三年、そして死んだ。明治の創作家中の真の作家――あらゆる意味に於て真の作家であつた独歩氏は遂に死んだのか!”


 ところで、独歩が亡くなった23日の夜、――前日の「赤旗事件」とも、この日夜の独歩の死とも無関係のことだが――啄木にある内的事件が起こっていた。
 “昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作つたもの、昨夜百二十首の余。”
 そしてこの湧くように歌がでてくる状況はしばらく続く。25日には“頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら。”と・・・。
(註:これらの歌は、直後の『明星』7月号に「石破集」として掲載。)
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by kaguragawa | 2016-06-23 20:40 | Trackback | Comments(0)

我が怠惰、取り返せない痛恨の思い   

 黒岩比佐子さんが亡くなれらた。〔日付は変わってしまったが一晩あけていないので、あえて“今日”、と言うのをゆるしていただきたいのですが、〕、きょう(11月17日)昼過ぎのことである。

 2年半前に、黒岩さんのブログ《古書の森》で、やりとりさせていただいた、『日露戦争実記』の発行社「育英舎」のことで、きのうちょっとした発見があり、今までであればさっそくと黒岩さんのブログに書き込みさせていただくところなのですが、もうブログの主はおられなくなってしまいました。

 一か月前の10月16日の講演会の後、数語ことばを交わさせていただいたときのことは、ここに今書くことは控えたいのですが、大事なひとときになりました。

 ゆっくりおやすみください。
 

 黒岩さん、『編集者 国木田独歩の時代』の書評を、――といっても私が書けるのは背伸びした感想にしか過ぎないのですが――書きますね、という約束(2年前の約束ですが)を私が果さないうちに、もうおられなくなってしまいましたね。
 我が怠惰、取り返せない痛恨の思いです。



〔追記:11/27〕
*モンガ堂さんがweb追悼記事のリンク集をつくってくださっています。有り難いことです。

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by kaguragawa | 2010-11-18 00:42 | Trackback | Comments(2)

12/15/2006〔二人の詩人の見えざる出逢い〕   

 豊かな詩的天分と感性を持ち、短かな人生を生き抜いた二人の生。

 《国木田独歩》は、1908(明41)年に38歳で亡くなり、それに遡る十年前〔1898(明31)年〕に《八木重吉》は生を享け、29歳で生を閉じています。
 二人の人生が相交わった期間は十年。おそらくお互いをまったく意識しない十年の交差だったはずです。

 ところがこの二人の年譜を眺めていると、二人を太く結ぶ紐帯のような人物が浮かび上がってきます。
 独歩の佐伯時代の教え子であり、独歩を通してキリストに出逢った“冨永徳磨”です。彼は、独歩の死後十年後に今度は重吉に洗礼を授ける役割を担います。
 重吉はじかに独歩を知りませんでしたが、徳磨をとおして独歩を意識したはずです。
 (そして何の因果か、独歩が亡くなった「南湖院」という神奈川県茅ケ崎の結核療養所で重吉も人生最後の時を過ごすことになります。そういう意味で二人の晩年に立ち会った療養施設「南湖院」の創設者で医師の高田畊安も二人を結んでいる不思議な人物です。)

 こうした独歩と重吉の交わりもゆっくり追っかけてみたいと思っています。

 *冨永徳磨 1875~1930
 *高田畊安 1861~1945
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by kaguragawa | 2006-12-15 19:35 | Trackback | Comments(0)