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江尻豊治と服部龍太郎   

 服部龍太郎が書いているおわらについての印象的な文章を見つけたので、写しておきます〔服部龍太郎監修『日本民謡大全集 中部篇3』(ジャパンアーツ社)所収〕。残念なことに、このレコードの民謡大全集には発行年が記されていない。服部がはじめて本場のおわらにふれたのがいつのことなのか、江尻豊治との出会いがいつどのようなものであったかも知りたいところだ。

 民謡がもっている本当の味わいをだすには、その土地のひとがうたうにこしたことはないが、「越中おわら節」などはとくにそうである。東北民謡が今のように広まらない以前、全国的に知られたのもこのおわら節であって、なんでも大正3年、富山の共進会で宣伝したのがきっかけになって流行したといわれる。またその当時、小原万竜という旅芸人が各地をうたい流したので広まったという説もある。小原万竜には初代目と二代目の2人があったらしいが、ともかく「越中おわら節」の本場、八尾が生んだ美声家だとばかり私は思いこんでいた。ところが八尾に行って保存会の川崎順二さんに万竜のことをたずねたら、「八尾とはなんの関係もない人で、ひょっとしたら一度や二度くらい来たかも知れないが、ここの出身ではありませんよ」といわれて、へんに失望したことがある。

  「越中おわら節」が流行していたちょうどその頃、大正の初期に「酒は正宗、芸者は万竜、唄は流行の、まがいいソング、なんてまがいいんでしょ」という文句が、「なんてまがいい節」でうたわれたことがある。
 しかしこの万竜は、おわら節の万竜ではなく、赤坂の名妓として名を知られ、のちに東大出身の工学博士恒川陽一郎との恋に結ばれた女性である。万竜などいう名前は、ざらにあるかも知れないが、能登出身の作家・加能作次郎の短編「登別の二日」というのにも万竜がでてくる。
 この短編は「おわら節」をテーマにしたもので、北海道の温泉場で湯槽につかりながら、男が連れの女におわら節を教え込んでいると、そこへ作家らしい人物が、その同じ湯槽に飛び込んできて、その節回しにひどく感心するのである。そしてその節について「この人のは本場です。八尾の万竜の直伝ですからね」といわせている。しれみると加能作次郎もまた、万竜を八尾出身の歌手と思いこんでいたらしい。

 昭和の時代になってから、おわら節の名手として知られたひとに江尻豊治がいた。いまの保存会でうたっている節回しは江尻の伝統を生かしたものであるが、江尻は盲人の歌手であった。
 昭和33年、わたしが八尾にいったとき、偶然のことに、江尻が死去して数日後のことだった。このひとは68歳で物故したのであるが、わたしはよほど江尻家の遺族をたずね、霊前に香でもあげようかと思ったが、やはり八尾の美しいイメージはそっとそのままにしておきたかったので、その門前から故人に黙祷をして立ち去った。風の盆のわきかえるよぅな八尾の熱気とともに忘れられない思い出の一つである。


〔追記〕
 服部の文中「大正3年、富山の共進会」とあるのは、「富山県主催一府八県連合共進会」である。開催年、実際は1913(大2)年である。この共進会については、別の機会に紹介したいと思っています。
 私事にわたりますが、20年以上も前のこと、江尻豊治のお孫さんにお会いして江尻豊治の遺された声に接したことが、私の「おわら」に深く関わっていく一つの機会になったことを、感謝の気持ちをこめて書いておきます。
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by kaguragawa | 2013-09-01 13:01 | Trackback | Comments(0)

小原節保存会設立総会に夢二が   

 おわら風の盆を眼前にして、ずしりとした『おわらの記憶』(おわらを語る会編/桂書房/2013.8)を勝山さんの手からいただくことができた。この興味津津たる本についてはしっかり読んであらためて感想も書きたいのですが、ぱらぱらとページをめくっていたら“竹久夢二”の名を目にしたので、ここに写しておきます。1929(昭4)年の新聞記事である。
 昭和の初年に川崎順二らの尽力によって(1928年に小杉放庵の新詞、1929年に若柳吉三郎の新振付)、おわらが一つの画期を迎えたことは、おわらの歴史で特筆されるべきことだが、1929年設立された小原節保存会設立総会に竹久夢二が――翁久允がひっぱってきたのであろう――出席していたらしいのである。

 以下、(注)もふくめ、『おわらの記憶』の「資料編」からの引用である。


(富山新報 昭和4年8月13日付)
郷土芸能小原節
保存会設立総会
十一日諸名士を迎へて
 来月一日から実地宣伝

 婦負郡八尾町にては県知事、内務部長その他中央芸術界の大家を顧問として組織せる小原節保存会の設立総会を、十一日午後四時より同町八尾劇場に於て開催した。
 県よりは各顧問を代表して清水商工課長の出席あり。来賓として竹久夢二、翁久允、水木伸一、藤田健次、若柳吉三郎、同吉美津の名士を迎えて盛大に開会され、同会の創立の功労者、川崎順二氏を主事に推薦し、各役員の選挙、保存会の主意等を協議決定し、来賓諸氏の祝辞、講演ありて、同六時閉会。次いで、小原節の実演に移り、各名士の批判を受けて午後八時四十分、盛会裡に散会した。
 しかして、来る九月一日夜より三日間、風の盆を好期として改良小原節を以て町内を練り回り、大いに郷土民謡の宣伝に努むることになった。


(注)「富山県及び県人」(昭和4年9月号)では、当日出席した主な主賓として翁久允、藤田健次、水木伸一、浅生豊の名が挙がっている。富山新報には、竹久夢二、若柳吉三郎夫妻も記されているが、実際には出席したかどうかは確認できない。

〔追記〕
 この中で、藤田健次はあまり知られていないようなので、下に生没年のみメモしておきます。野口雨情の弟子筋の民謡詩人とでもいう人でしょうか。藤田健次、水木伸一、麻生豊らはやはり翁を中心にした交友(交遊)メンバーというべき人々ですね〔上記(注)中の「浅生豊」は原文のママです〕。確かこのメンバーでこの年5月、草津温泉に遊んでいますね。

  *藤田健次 1894.01.25~1968.06.25

〔追記:2014.6.18〕
 上記の“藤田健次”――夢二がその表紙を描いたた雑誌『民謡詩人』の編集人――が、なんと富山県立山町の出身であったことを中山輝さんの書かれたものの中で知って驚いたのですが、私が余戯?で藤田のことを調べているのとは別に、藤田健次のことを追っておられる方があることを今日知ってこれも驚きました。
 この件、いずれK先生のご教示を得て、更なる追記ができることとなると思います。では。
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by kaguragawa | 2013-08-31 19:52 | Trackback | Comments(0)

やつお   

 八尾を訪ねる。旧町は、おわら風の盆の準備に余念がない。もうすでに前夜祭も始まっている。
 久しぶりに曳山展示館で一休み。

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 林秋路の版画に言い尽くせぬ思いをあたためる。

 そして、おわらの歌詞にあてた酒歌は秋路の極意を伝える私の友のような歌

   酒のないよな極楽よりも堕ちて地獄の オワラ 鬼と呑も
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by kaguragawa | 2010-08-27 21:27 | Trackback | Comments(3)

八尾の山を歩く普羅   

 八尾の春の山でもう一つ思い出したのが、前田普羅の句集『飛騨紬』(昭和22年)の序文です。北陸の春をこれだけうまく伝える文章は数少ないのではないかと思われるので、少し表記を換えて転記させていただくことにしました。
(もともと「奥飛騨の春=前記」と題して句誌「辛夷」昭和4年5月号に掲載された紀行文の前書きを、そのまま序文として転用したもの。)


 “吹きつづく雪消風は、越中の南に立ちふさがる山々の雪を削る。

 四月の初め、八尾町の郊外に一歩をはなれると、崖という崖、畦という畦はツクシンボウの林となり、赤肌を見せた畑の畔や、城が山の横っ腹には萌黄色のフキノトウが並び、星のようなルリイチゲがぽつりぽつりと咲く。四月二十日の曳き山が近づくと、風雨の往来もあわただしくなるが、枯葉に覆われた卯花村の森のかげには、厚い肉質のカタクリの芽が出る。曳き山の賑わいが山の町をとおり過ぎ、気早な町の家で、初夏らしく、紺の香高い暖簾を掛けると、木の芽のかたい雑木林には、コッサ採る人の背が見え頭が見え、古調のオワラ節が静かに流れてくる。

 牛嶽、祖父が岳、夫婦山、御鷹山、なかなか姿を見せなかった白木峰、金剛堂山、それらの麓には未だ雪は氷のように肘をつっぱっては居るけれど、然し春は争えない。去年の初雪の頃からうち絶えていた、八尾商人と奥飛騨の人々との取引は、本街道からも裏径からも始められるのである。”

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by kaguragawa | 2010-04-07 23:37 | Trackback | Comments(0)