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帝国議会の「僅か二三千万」   

 日露戦争直後の明治39年度・明治40年度の国家予算を、第一次西園寺内閣(立憲政友会)の「積極政策」や戦後不況との関連で調べていて、ふと、明治40年に発表された小説の一節が浮かんできた。

 “例えば堂々たる帝国の議会ですら、僅か二三千万の金の問題で、大きな子供がワイワイ大騒ぎをやるじゃないか。”

 もちろん、明治40年発表の作品だからといって、そこに書かれている帝国議会での「僅か二三千万の金の問題」が、明治39年度予算を審議していた第22回帝国議会(会期:1905(明38).12.28~1906(明39).03.27)あるいは、明治40年度予算審議の第23回帝国議会(会期:1906(明39).12.28~1907(明40).03.27)のものとは限らないし、あくまで創作中の1フレーズにすぎない「二三千万の金の問題」という記述が史実をなにがしか反映したものだという保証もないのだが、不思議と気になる一節ではある。
 「僅か二三千万」とはいうが、明治39年度予算(支出)額が、504,962,489円(約5億円)――日露戦争前は、3億弱――であることを考えれば、決して「僅か」とは言えないものであり、そこにからむ「問題」が何であったのかも気になるところではある。

 このブログ上で、「僅か二三千万の金の問題で、大きな子供がワイワイ大騒ぎをやる」のもどうかと思うが、引用した一節がこと三島霜川《解剖室》の中のものだとすれば、私にはそうすました顔でいるわけにもいかないのであります。

# by kaguragawa | 2015-05-29 20:05 | Trackback | Comments(0)

堀田善衛を読む会第8回例会   

第8回例会は、『インドで考えたこと』

★と き:5月23日(土) 午後1時半~4時半
☆ところ:金沢大学サテライトプラザ(金沢市西町教育研修館内)

# by kaguragawa | 2015-05-20 22:49 | Trackback | Comments(0)

132年前の「富山分県」と藻谷さん   

 米澤紋三郎が「分県之建白」書をもって上京したのは、明治15年(1882)の秋。この年の5月に結成された越中改進党の主要メンバーだった紋三郎は、建白の代表委員として上京したのですが、このとき安政四年(1857)生まれの紋三郎は、なんと26歳(満年齢)、翌年の5月9日に、富山県域は石川県から分離独立、現在の「富山県」が誕生し、紋三郎は「分県の父」とも呼ばれるようになります。しかし、注目したいのは、この分離独立運動を担った、「越中改進党」のメンバーには、紋三郎だけではなく、何人も20代の若者がいたことです。米澤紋三郎とともに上京した入江直友もそうですが、文久元年(1861)生まれの藻谷伊太郎もそのうちの一人で、しかも22歳でした。

 奇しくも富山県の分県を記念して制定された「県民ふるさとの日」の今年の記念式典に講演されたのが、この「越中改進党」結成のメンバーで漢詩人でもあった藻谷伊太郎の直系の曽孫(ひ孫)に当たられる藻谷浩介さん。藻谷浩介さんご自身が藻谷家と富山県のつながりを講演の冒頭でお話になられましたが、「分県」と藻谷家との関係にはふれられなかったので、余分のことながら、ここで私が蛇足の弁を弄した次第。

 あっ、書き忘れるところでした。講演のテーマは「新幹線時代を迎えた富山県の今後」。内容は明日の新聞?。

〔追記〕
 ブログ「陸に彩りを添える楓と柊」さんが、式典と藻谷さんの講演の大事な部分を紹介しておられました。ご覧ください。

# by kaguragawa | 2015-05-09 20:13 | Trackback | Comments(0)

よりによって今日、富山の「産業革命遺産」を訪う   

 ユネスコの諮問機関が、「明治日本の産業革命遺産」を世界文化遺産への登録勧告をしたとのことで、各所の歴史遺構が大きく報じられている。が、ここ数か月、横山源之助とともに日本の産業革命の現場で働く明治の人々を追ってきた私には、幻聴だろうが「私たちたちのこと、忘れられているんじゃ・・・?」との声が聞こえてくる。
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 源之助の『日本の下層社会』にもその名の見える「高岡紡績」。その跡地を今日、千保川右岸の高岡市大町に訪ねました。ずっと訪れたいと思っていた高岡紡績の跡地にこんなタイミングで出掛けることになろうとは、何の因果か・・・?。
 その工場跡地に今も残る遺構の“赤煉瓦”は、「明治日本の産業革命遺産」そのものである。日本海側初の――しかも錘数1万を誇る――紡績「工場」だったといい(追記:今、調べた『富山県写真帖』(明治42)の記述には、「射水郡横田村に在り資本金十万円にして錘数一万九百余を有し日々三百六十余名の職工及び徒弟を使役し一年凡そ七千七百梱を産出す」とあり)、建物はイギリス人技師の建築によるものという。

 追記:1893年創業の高岡紡績は、100年前の1915年11月、日清紡績に合併され日清紡績高岡工場となる。

# by kaguragawa | 2015-05-05 22:21 | Trackback | Comments(2)

《「で」止め》   

 文章の末尾の形態(文体)を表す言葉に、“で止め”という用語(術語)があるらしい。「体言止め」・「連用(形)止め」など、それぞれ文の切れ目が「体言」・活用語の「連用形」で締めくくられるように、「で止め」は、文末を「で」を終える形です。

 この特徴的な文尾が私にとって親しいものであるのは、三島霜川の文章によってですが、いざその文例を挙げようと思ったら、手近なところには見つかりません。
 今後、見つけた時点で、ここに追記していきたいと思います。

# by kaguragawa | 2015-05-05 19:27 | Trackback | Comments(0)