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この四人は誰ぞ?   

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1939(昭和14)年、信濃追分(西軽井沢)。この四人は誰ぞ?
中村真一郎、山崎剛太郎、野村秀夫、小山正孝の諸氏だそうな。
(猿渡重達『追憶の野村秀夫』1981.3より)


by kaguragawa | 2019-02-15 22:20 | Trackback | Comments(2)

二・八独立運動から100年の日に   

 久しぶり読んだ中塚明さんの『近代日本と朝鮮』から。

 米騒動のころ、日本には約800名の朝鮮留学生がいたが、1918(大正七)年の暮ごろから、彼らのあいだでも独立運動が活発になっていた。そして東京にいた約600名の朝鮮人学生は、早稲田大学政治学科の崔八鏞らの指導のもとに1919年2月8日、神田小川町の朝鮮人基督教青年会館に集まり、独立宣言と決議を発表、公然たる独立運動の烽煙をあげた。
 その宣言は、アメリカとイギリスが、日本による朝鮮の「保護」と「併合」を率先して承認したことを鋭く指摘し、ロシア革命で帝政ロシアがうちたおされたいま、「韓国併合」の最大の理由はなくなったとして、朝鮮の独立と自由を要求するとともに「日本がもしわが民族の正当な要求に応じないならば、わが民族は日本に対して永遠の血戦を宣するであろう」と宣言した。—―もちろん、この大会は日本官憲のはげしい弾圧を受け、指導者は逮捕された。しかし、朝鮮人学生はあとからあとへと繰り返し集会をひらき、議会へ陳情やや逮捕への抗議をつづけた。
 いっぽう東京の朝鮮人学生の半数は、郷里に帰り、独立運動の準備をはじめた。彼らはやがて起こる三・一運動の全国への波及をたすけるうえで重要な役割を果たすのである。

 
※100年前の2月8日は雪の日だったようです。文中の「朝鮮人基督教青年会館」は、「神田小川町」となっているが、正確には「神田区西小川町2丁目5番地」ではなかろうか。





by kaguragawa | 2019-02-08 23:26 | Trackback | Comments(1)

射水郡立農業公民学校と南原繁(3)   

 目をこらし耳をすませば、私がいま住んでいるこの射水の地から、100年前の南原繁の若き日の理想を、今も、いくつも、感じとることができるのではないか。


 次は、1月18日に行われた送別会での南原のあいさつ。
(「高岡新報」(1919.1.19)から。表記はかなり変えました。)

 一通の電信は今たちまち余の身分を数百里の外に置けり。数百町歩にわたる湿田の排水事業なりて土地肥え穀物豊かに稔りて郡民撃壌の光景。あるいは高伏運河の大事業なりてこの付近一帯に煙突林立しマンチェスター日本の大阪を見るがごとき活発なる商工都市の現出したる光景。またあるいは、公民教育を了したる有為の青年が続々として輩出し所在農村の中堅となり勇ましく自ら本郡をその双肩に背負い立てる光景。
 これはことごとく美わしき絵巻物となりて余の胸に残れり。しかして余は今やこの美わしき絵巻物を抱き、懐かしき土地懐かしき各位と別れて、明日は早や高岡駅頭を出発せんとするなり。想えば哀しき今日の日よ、余や在職一年有十ケ月、その間幾多の懸案を事業を残したるのみにて、何らのなすところもなかりしが、唯一つ各位の篤き友情を得たるは、何物にも代えがたき満足とするところなり。願わくは各位健在たれ。


by kaguragawa | 2019-02-03 18:43 | Trackback | Comments(0)

射水郡立農業公民学校と南原繁(2)   

 南原宛ての電話がいつ架かかってきたのか、南原がいつ射水の地を去ったのか、判然としない。

 射水郡の郡会が始まったのは1919年1月8日。内務省本省からの南原宛ての電話は10日か?。そして南原は、前射水郡長として郡会の成り行きを気遣いながら射水を離れる・・・。1月18日のことだったか、19日だったのか?。
 前年の1918年1月の北陸が大雪だったことは知られているが、1919年の1月はどうだったのか?。

 ちなみに1月18日に、第一次世界大戦の戦後処理のパリ講和会議開始。28日はウェーバーのあの『職業としての政治(Politik als Beruf)』の講演がミュンヘンで行われている。


by kaguragawa | 2019-02-02 22:04 | Trackback | Comments(0)