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ハナミズキの実   

 いい句を読む楽しみは私にとって楽しいひと時ですが、みずから句をつくるという楽しみはありません。それでも俳句サイトにコメントを書かさせていただいた機縁で駄句をいくつかひねったこともあるのです。

 そのなかで出来は問題外ながら句をつくったことだけはしっかり覚えている、そういう瞬間があります。おじの葬儀のあと火葬場に向かう車中から見えた秋のハナミズキの細い独特の枝ぶりと赤い実がが印象的で五七五にしたのです。しかし、句をつくったことは鮮明に覚えているのにその句そのものが思い出せなくて自分でも情けなく思っていたのですが、偶然net友かわうそ亭さんのHPの過去ログの中に見つけました。
 自分のメモとして写しておきます。


   ミズキのミ幾何放射の枝に赤く付き  かぐら川

by kaguragawa | 2010-01-16 20:26 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)

スウィトナーさん逝く   

 オーストリアの指揮者でN響の名誉指揮者であったオトマール・スウィトナー(Otmar Suitner)さんが亡くなられた〔1月8日〕。
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 ぞくぞくするような演奏がいくつも残されているのではないかと思います。
 私なりに気長に名演の掘り出しをしたいと思っています。


ご冥福をお祈りします。

by kaguragawa | 2010-01-13 23:11 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

番町麴町「幻の文人町」   

 きのう3年前に書いたものを再録しつつ、麴町を走っていた「街鉄」→「東鉄」→「市電」→「都電」と名を変えていった路面電車(賢治の東京時代は「市電」)のことや、「新宿通り」のうち、半蔵門から四谷までが「麴町大通」と呼ばれていることを思い出して、そこをキーワードに検索を楽しみました。

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 いままでその断片だけを、検索にひっかかってきた折々に閲覧していた「麴町界隈わがまち人物館」「麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)」という二つのサイトのホームページを見つけていろんな情報が蓄積されていることを知りました。
 そう言えば、そこにも紹介されている『番町麴町「幻の文人町」を歩く』(新井巌/彩流社)は、網羅的な番町麴町人物紹介ですが、番町麴町にいっときたりとも住んだ石鼎も賢治も取りあげられていないのがとても残念なことです。

 〔追記〕
 『番町麴町「幻の文人町」を歩く』。この本は、昨年平河町にその地でお仕事をされているI氏を訪ねた時、貸していただいた本。おかげで、氏と別れた後、この本をしっかり抱えて坂の多い夜の麴町番町を、一葉や廉太郎の短い生を思いながら、何時間も歩くことができました。

by kaguragawa | 2010-01-11 20:39 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

賢治19歳の東京の日々   

 かなり内面の問題にかかわるので、宮沢賢治と私の関わりについては文字にしづらい――隠匿するということではなく、「書く」という行為には今のところなじまないという意味ですが――ので、作品への直接のコミットはさけて彼の事蹟のフォローを日記やブログでも少し書いてきたのですが、彼の最初の単独上京である高農時代のドイツ語学習(神田猿楽町)にはずっと関心を持っています。

 こうしたこともおいおい書いていきたいと思っているのですが、このドイツ語学習時代に下宿した麹町の一帯を3年前に歩いた記録の一部を書いた日記(2007.10)を「宮澤賢治の詩の世界」のhamagakiさんがリンクしていただいたので、 、このブログでもあらためて再紹介しておきます。(以下は、その2007.10の日記の転記です。)

       ━━━━ ……‥‥・・・・・・・・‥‥……━━━━

 盛岡高等農林学校2年在学中19歳の賢治が出京してドイツ語を学んだその場所は、当時の表記で「神田区仲猿楽町十七番地」。この《東京独逸学院》跡地を訪ねた顛末は、〔2007年〕2月20日以降の拙日記「神田界隈の青年・賢治」で、書きました。(2010.追記「《東京独逸学院》訪問記は大幅に訂正する必要があります。)

 ところで、約1か月にわたる在京「ドイツ語学習」の折、賢治はどこに止宿していたのでしょうか。
 できれば、止宿先を、さらに毎日往復したであろう、宿と講習会場を結ぶ道を、つきとめてみたい。そして青年賢治の屈託した?東京の日々の思い――それは当時の短歌からうかがわれます――を、その道を歩きながら、少しは自分のものにしてみたい。そんな夢のようなことを、考えてもいました。

 手掛かりはあるのでしょうか?。手掛かりはあるのです。この賢治の東京は、約90年前の東京なのですが、19歳の賢治上京中(1916・8)の手紙・葉書が何通か、ちくま文庫の『宮沢賢治全集9 書簡』に収められているのです。
 月初の頃は、「(東京市)麹町区麹町三丁目 《北辰館》」、月後半は、「(東京市)麹町区麹町三丁目 《栄屋旅館》」が止宿先となっています。

 実は、奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」(1966(昭41)〔1975(昭50)補筆〕)に、この近辺の奥田氏の手書きの地図があります。奥田氏は次のようなコメントを付しています。

 「この時の宿泊先となった「北辰館」は、略図のとおりである。都電停留所、麹町二丁目から、四谷より一つ目の道を右折すると、鈴木コーヒー店というところが、そうである。近くの古老の話によると、「北辰館」は、比較的大きい旅館で、下宿兼用の旅館ではなかったかという。当時は、附近に下宿専用の小規模の旅館や「素人下宿」の旅館が多かったそうだ。」
(なお、この奥田論文執筆当時、高松秀松氏あての書簡しか見つかっておらず、このときの賢治の上京が、ドイツ語学習のためということがまだ判明していませんでしたし、保阪嘉内あて葉書の「栄屋旅館」のことも知られていませんでした。)

 ところで、この辺り一体が奥田氏の論文執筆の時とでは、一変しているせいか、簡略で昭和的な雰囲気の奥田地図と現在の地図と、どうもうまく照合できないのです。
 そんなこんなで、いままで訪問を見合わせていたのです。が、今回の仕事で立ち寄る先が、麹町。前日になって、古い地図と奥田地図を照合して、だいたいの見当をつけ、東京に向かいました。
 この近辺、新宿通りの南側(平河町・赤坂側)は、結構歩きまわったことはあるのですが、北側(番町側)に入り込むのは初めて。許された時間は食事の時間も含め1時間。ダメもと、と割り切って有楽町線の麹町駅に降りたのは12時過ぎでした。

 奥田氏のコメント、“「北辰館」は、都電停留所、麹町二丁目から、四谷より一つ目の道を右折すると、鈴木コーヒー店というところが、そうである。”の、「都電停留所」(注:賢治の時は、市電停留所:麹町《三》丁目)は、もちろんもうありません。
が、停留所のあった大きな交差点から「四谷より一つ目の道を右折すると」、
そこには、案の定コーヒー店はなかったのですが、《麹町鈴木ビル》――ビジネスビルで、北面側は「笑笑(わらわら)」という居酒屋――がありました。鈴木さんは、喫茶店をやめオーナーとして貸しビルをやっておられるのでしょう。この区画は、旅館―喫茶店―ビジネスビルと変ったようです。〔麹町二丁目2-36〕。

 「北辰館」・・・。けっこう、大きな旅館だったのではないでしょうか。

 五街道の一つ、半蔵門を出立点とする甲州街道〔現・新宿通り〕両脇に商家が建ち並んでいた麹町は、古い写真を見てもそれなりの歴史と活気を感じさせてくれます。その脇を入ったところに旅館や下宿があったようです。

 時間を気にしながら、その一画周辺を行ったり来たりしながら思いだし、かつ、なんとなく思いあたったのは、次のようなことでした。
 賢治は、日は特定できませんが、「北辰館」から同じ麹町三丁目の「栄屋旅館」に止宿先を変えているのです。「北辰館」は、客数も多く騒がしかったので、こじんまりとした個人向けの旅館に移ったのではないか、そうに違いない・・・。

 「麹町鈴木ビル」が無理なく「北辰館」につながり、そして賢治にたどりついたほっとした思いとなったのですが、その街角が賢治の青春のある悲しみにつながっているような気がしてならなかったというのも、うまくことばにできない感想でもありました。

 そして、もう一つ思い当ったこと。下宿と独逸学院を結ぶ道筋(といっても少し寄り道になりますが)に当時、あったもの。そう、この活気ある町中に、乳牛を数十等も飼う牧場が飯田町にあったはずなのです。
ずっと違和感が残っていた、「銀河鐵道の夜」の中の牛乳屋。それは・・・。

by kaguragawa | 2010-01-10 15:35 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

 「病は脚から!」?   

 遅れて届いた友人からの年賀状にこうあった。


   “おすめの本です
   「病は脚から!」文春文庫”


 自筆でこれだけ書き加えてある。
 はたしていかなる本なのか。書店でのぞいてみよう。

by kaguragawa | 2010-01-08 23:13 | 本/映画 | Trackback | Comments(0)

 「絢香 22歳のラストステージ」   

 「絢香 22歳のラストステージ」(NHK総合)

 病気を“見て見ぬふり”をせずに、病気にきちんと向き合う。こう決意して絢香は音楽活動の無期限休止を決め公表した。昨年の4月のことだった。不完全な体調で歌うより、病気とゆっくりつきあい復帰したときもっと心豊かにメッセージを伝えられるのではないかという彼のアドバイスが気持にすとんと落ち決意したという。

 そして、昨年大晦日の紅白歌合戦の「みんな空の下」が休止前の最後のステージとなった。それは私にとっていちばん心に突きささり心揺さぶられた歌のひとときとなったものでした。そして11月の大阪城ホールでの彼女の最後の単独ライブをめぐってこの番組は22歳の彼女の現在を切り取って伝えてくれた。

 今日、折しも指揮者の小澤征爾さんが早期食道がんを公表し半年間の休止に入った。病気を“見て見ぬふり”をせずに、病気にきちんと向き合うこと――。こうしたきびしくもみごとな決断に応援のエールを送りたい。これは国木田独歩について多くのことを教えていただいた療養中のIさんへのエールでもあります。私もちょっとだけこうした生き方を見習ってがんばろうと思う。

by kaguragawa | 2010-01-07 23:34 | 音楽 | Trackback | Comments(2)

《三島霜川年譜》   

 3年前に整理しかけて途中でとまったままになっている《三島霜川年譜》。年齢は25歳までだけですし、追記、補正すべきことも少なからずあるのですが、今年は少し霜川にもどって作品を読みなおしたり、伝記的事実の掘り下げをしたいと思っています。そういう意味で、ここに掲載しておきたいと思います。学歴という基本的事項さえも確定できていないのです。
 なお、年齢は「数え年」です。


・1876(明9) 1歳
7月30日、石川県砺波郡下麻生村686番地(現:富山県高岡市下麻生)に生まれる。4月8日説もある。父・重法、母とめ。家業は代々医者であった。本名は才二。ペンネームは、「うたの助」「歌之助」「犀児」「鳥奴」「牛魔王」「椋右衛門」「島三子」など。
(1876年4月18日から1883年5月9日の間、現在の富山県は石川県に含まれていた。)

・1879(明12) 4歳
2月23日、妹しげの生まれる。

・1881(明14) 6歳
2月12日、妹あい生まれる。

・1887(明20) 12歳
「水滸伝」、「三国志」、涙香の翻訳物や、須藤南翠の作品などを読む。

・1889(明22) 14歳
福島県磐城郡四倉(現:福島県いわき市四倉町)へ転居し約2年間生活する。

・1893(明26) 18歳
この頃、第四高等中学校へ入学しようとして金沢に遊学したこともあるという。二葉亭四迷訳「あひびき」などを読む。泉鏡花、田中涼葉らを知ったと思われる。

・1894(明27) 19歳
4月5日、妹みさお生まれる。
小説家になりたいと父に告げる。父は反対して認めず、9月、東京へ飛び出る。鴎外の「水沫集」中の「埋木」「うたかたの記」、内田不知庵訳「罪と罰」、森田思軒訳「懐旧」などを読む。

・1895(明28) 20歳
(一時、医学校の済生学舎に学んだという伝聞もあるが不明。)4月、父から長文の手紙が来て、文学への志望を認められる。しかしまもなく父が変死する(4月16日)。文学への情熱さらに強まる。病気のため一時金沢に帰っていた田中涼葉が再び上京、本郷区本郷弓町の下宿に同居する。やがて涼葉を介して徳田秋声とあい知るようになる。この下宿に小栗風葉、桐生悠々も訪れ、文学について談じる。
家業の病院は堀井医師に委託する。

・1896(明29) 21歳
本郷弓町の下宿に小栗風葉、桐生悠々も訪れ、文学について談じる。12月、秋声は風葉と語らい柳川春葉と3人で、尾崎紅葉の裏つづきの家で共同生活の「十千萬堂塾」〔牛込区箪笥町〕を始める(後に、田中涼葉、中山白峰、泉斜汀らも参加)。霜川も秋声らの紹介で紅葉の門に入り、硯友社の同人格となる。
家業の医院を堀井医師から松井医師ら4人に委託(医院はいつまで続いたか不明)。

・1897(明30) 22歳
春ころ桐生悠々の下宿に入る(4か月)。悠々からシェークスピア、トルストイなどヨーロッパ文学の知識を得て、影響を受ける。7月、郷里の家を整理、母と妹が上京し、下谷区上野池ノ端七軒町に住む(翌年4月まで)。生活は困窮し暗黒時代。妹しげのは森田謙斎宅、妹あいは豊島家で育てられる。

・1898(明31) 23歳
1月29日、田中涼葉死亡。この頃、人民新聞社(『日刊人民』を発行)に入る(明33年まで)。8月、「埋れ井戸」が『新小説』の懸賞小説に当選した。稿料は三十円。『めざまし草』の評にとりあげられるなど好評を博し、文壇登場のきっかけとなった。

・1899(明32) 24歳e0178600_17953.jpg
1月、「除夜」「黄金窟」を『日刊人民』に、4月、「ひとつ岩」を『世界之日本』に、8月、「長髪先生」を同誌に、「ふた心」を『中外商業新報』に、9月「村の鍛冶屋」を『世界之日本』にそれぞれ発表した。10月、「女海賊」を『煙草倶楽部』に発表し、『帝国文学』(12月)の好評をうけた。「ひとつ岩」の稿料は二十円。(『世界之日本』は、M29.7創刊の雑誌。竹越与三郎主筆。開拓社。)
『世界之日本』に俳句を発表。この年、富士新聞記者となる。

・1900(明33) 25歳
無計画な生活態度より依然として貧窮。1月、「寺男」を『新小説』に、12月、「夕潮」を『文芸倶楽部』に発表。年末に、星亨の『民声新報』の社中となり三面記事(社会面)を担当。国木田独歩が編集長。

・1901(明34) 26歳
大阪毎日新聞懸賞小説「ほむら」投稿、紅葉閲す。1月2日、紅葉宅で新年会。秋声、鏡花、霜川等十八人出席。三月十七日紅葉と談す。3月下旬、本郷区向ヶ丘弥生町3ト11で秋声と同居を始める。三人の妹も一緒(7月に同居解消)。6月21日、星亨が刺殺され『民声新報』廃刊。12月、大阪の兄のもとに旅立つ秋声の荷造りを手伝い見送る。
4月、「長髪」を『民声新報』に、7月。「ささ舟」を『小天地』に、9月、「はんけち」を『新小説』、「星」を『新声』に、11月「渡頭」を『半面』に、12月、「古井の底」を『勢揃ひ』に発表。この年1月の『新声』の時評「甘言苦語」は、霜川を前途有望な新人として推賞した。


〔追記〕
 三島霜川について旧日記上に書いたもののリンク集「三島霜川関連メモ 」は、下の場所にあります。

 「三島霜川関連メモ 」(1~5)→ここ
 「三島霜川関連メモ 」(6)→ここ

by kaguragawa | 2010-01-06 00:36 | 明治大正文学 | Trackback | Comments(0)

85歳のプレートル、100歳のまどみちお   

 正月のテレビ話題として書きたいことも多々あったのですが、帰省した息子が卒論の仕上げとかでパソコンを独占してしまい、その機会を逸してしまいました。ちょっとメモだけ。

 書こうと思ったことの一つは、今年のウィーンフィルの“ニューイヤーコンサート”。フランスの指揮者ジョルジュ・プレートルさんの曲目選びもおもしろかったのですが、なんといっても「美しき青きドナウ」!。

 もし見逃した人がおられるならば是非、再放送があれば見ていただきたいのが、「まど・みちお百歳の詩」(NHK)。まどさんの語る言葉と詩、感嘆と感動に満たされた50分でした。

by kaguragawa | 2010-01-05 23:42 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(2)

ことしも“福うめ”と“梅鉢紋”   

 ことしも“福梅”をおいしくいただきました。昨年、このお正月の和菓子“福梅”について書いたところ、なぜかこの日だけアクセス数がとても多かったことを思い出しました。

 昨年1月4日の「“福梅”--金沢・高岡」は、こちらです。 
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 上にリンクした記事から自分の覚えのために、「ウメバチソウ(梅鉢草)」の名のもとにもなっている前田藩の「梅鉢紋」についての拙メモを再々録しておきます。

 “菅原道真を祭神とする天満宮系の神社の「梅紋」――基本的に5弁が接している。本家本元の太宰府天満宮は「梅鉢紋」ではなく「梅紋」――も様々なヴァリエーションがあります。その中の「梅鉢紋(剣梅鉢)」は、むしろ加賀前田家が菅原道真を祖とするという伝承をオーソライズしたことによって、自家の紋を広く世に定着させたものと言われています。
 前田藩でも、本家加賀前田と支藩の富山前田家・大聖寺前田家では真ん中の部分が違います(「加賀梅鉢」「富山梅鉢」「大聖寺梅鉢」。さらに時代によっても細かなヴァリアンテがあります)。

 実は「梅鉢」の「鉢」とは何だろうと長い間疑問だったのですが、これは「鉢」ではなく「撥」(三味線などのバチ)を花蕊にかたどったことによって、その形も名前も生まれたもののようです。”

by kaguragawa | 2010-01-03 16:41 | いただくもの | Trackback | Comments(0)

見ぬ世の人を友としつつ   

 奥村さんのブログで橘曙覧(たちばな・あけみ)の歌を読み、ちょっと思い出したことを書いておきます。“曙覧と良寛”のことです。

 いっとき良寛の詩書に親しんだことがあり良寛研究の諸本もどこかにしまってあるはずなのですが、良寛と同じ時代の橘曙覧の間に直接の交流があったとことは記憶にありません。生年だけ比べると良寛の方が半世紀先んじているようです。ともに奈良朝の歌人・橘諸兄の流れを汲むことを意識していたことは別として、共通の志向をもっていたことは確かですからこの二人がお互いに相識っていたかどうかは興味のあるところです。
 
 昨年、こんな歌を知りました。

  良寛の曙覧の遺墨打展べて語らふ夜の雨となりにけり

 高岡の俳人筏井竹の門の歌で、語らう相手はこれも金沢の俳人の桂井未翁。この歌には良寛が曙覧の歌?を書き遺したものを間にして語り合う楽興のひとときがあります。

 兼好法師の、「ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」。こんな生活をことしも“一つの”理想としていきたいと思っています。

by kaguragawa | 2010-01-01 16:42 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(2)