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カテゴリ:街歩き/たてもの( 25 )   

高岡開町まつり   

 高岡開町400年を記念した「前田利長公入場大行進」を家内の要望で見に行ってきました。この利長公入場を見ようといつもは日曜日でもほとんど人通りのない高岡の駅前中心街に多くの人があふれれいました。利長役には勝野洋さん、正室の永姫(信長の娘)役には浅野ゆう子さん。家臣団の中に高岡城築城に携わった高山右近や神尾図書などの名を見たときは、とりわけ神尾図書の名を見たときはちょっと興奮してしまいました。
 
 「高岡開町400年事業のあらまし」には、次のように書かれてあります。
 “慶長14年(1609)9月13日、加賀2代藩主前田利長公は、春からこの地で築城していた高岡城に入場しました。これに併せて、各地から人が呼び寄せられ高岡の町が開かれました。「高岡」という地名は、このとき中国の古典「詩経」の一節「鳳凰鳴矣、于彼高岡」にちなんで名づけられたものです。
 利長公の死後、高岡城は「一国一城令で廃城となりますが、3代利常公は、利長公の菩提寺「瑞龍寺」(国宝)の造営を進めるかたわら、商工のまちとして高岡の再生を図りました。”

〔追記〕
 上に、「神尾図書」の名を挙げましたが、2年前の9月13日・14日に、「はひ」の謎ということで、この利長の高岡城入場について書いていてそこに神尾図書が登場していたのです。2年前は利長の入城がこんな大イベントになろうとは想像もしていませんでした。下に再録しておきます。

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 “はひ”。――これは「は・ひ」と読むのでしょうか、「は・い」と読むのでしょうか。読み方もさることながら、これが、「羽肥」の平仮名書きだと言われても、なんのことだかわからないことでしょう。実は「はひ=羽肥」は「羽柴肥前守」の略なのです。

“羽柴筑前守”なら、羽柴秀吉のことでしょう。でも「肥前守」の方は、知らないよ、ということになりますね。

 しかしそもそも、つねに“羽柴筑前守”=「羽柴秀吉」ではないのです。秀吉が、自分の名前を与えた人間がいるのです。秀吉の朋友でもあり、死後、遺児秀頼を託そうとした前田利家がその人です。では、「羽柴肥前守」というのは誰かと言うと、利家の嗣子、利長のことです。「はひ」とは、前田利長が書状などに残している自分の名なのです。

 “わさと申入候申こし候へく候仍高おかへわたましの義申つかい候所ニ廿八日のころハばん所たかへやへいなとも出来いたし候ましき由此ぶんニ申こし候間らい月四五日ごろまてのべ可申候と存候間そこもと本丸ののふしんのてハ山城出羽なとへそうたん候てもつとも候 かしく 八月八日 はうき つしよ  はひ ” 

 最後の“はひ”が、「羽柴肥前守」(=前田利長)です。
 この「はうき(伯耆〔松平康定〕)」「つしよ(図書〔神尾図書之直〕)」宛ての書状〔慶長14/8/8〕では「高岡へわたましの儀」「(八月)ニ廿八日」の文字も見えます。

 慶長十四年、利家は居城の富山城の城下が大火で焼け、魚津城に避難し、急きょ射水郡関野(高岡市)に新たに城を造りだします。城跡は残っていませんが、今に巨大な水濠を残す高岡城――高山右近の縄張り(設計)――です。そこに八月の二十八日に入る予定だったのですが、築城が少し遅れます。
 実際、正式に入場したのが慶長十四年九月十三日〔1609.10.10〕。この「九月十三日」を記念して、毎年9月13日に、利長の墓前で、「前田利長公顕彰祭」が行われることになっているのです。

 そう、今日は、利長の高岡入城を記念した日だったのです。

〔追記〕
“羽柴筑前守”=「前田利家」については、「百万石新発見!」(2002.6.2)の項、参照。
http://www2.pf-x.net/~matazaemon/topics2002.htm

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 昨日引用した利長書状の中に、「(高岡へ)わたましの儀」という文言がありました。

 手元の古語辞典によれば;【わたまし《移徙・渡座》】 貴人の転居の尊敬語――――と、説明があります。

 つまり前田利長が「高岡への転居」(高岡新城への入城)の日程を、城普請の進み具合(これが遅れ気味のようなのです)を考慮して、話題にしているわけなのです。ところで、この利長書状を見て以来――ここ数日自分のメモとして書き綴っている初期前田藩政のことはさておき、――気になって仕方がなかったのが、この不思議な語感の《わたまし》という言葉なのでした。

 「わたまし」という初めて出会った言葉を自分の舌にのせて口に出してみたとき、ふっと浮かんできた言葉がありました。意味の上ではまったく関係がなさそうなのに、兄弟のように似た《おあたまし》がその言葉です。

 我が「神楽川家」、もちろん由緒ある家系でもなく格式の高い家柄でもないのですが、北陸の家の常にたがわず、父親の代で家を新築した際、「仏壇」を新たにこしらえたのですが、あたらしい仏壇が出来上がってきたとき、檀那寺のお坊さんに来てもらって読経してもらい「おあたまし」という儀式?をしたのです。もう三十年も前のことですが、耳慣れない「おあたまし」という言葉が印象的だったのか、忘れていた言葉がまざまざとその日の光景をともなって蘇ってきたのです。

 結論を言えば、新仏壇のお披露目?である「おあたまし」というのは、「御遷仏法要」「御移徙(ごいし)」とも呼ばれるように、仏様が新しい仏壇に移られることであり、「(お)わたまし」――つまり、「貴人の転居」――のことだったのです。

 二つの言葉との出会いを、縷々書きしるしたには、もう一つ書いておきたいことがありました。
「わたまし」の検索で出会ったブログも紹介しておきたかったのです。

《ー能登のうみやまブシー》 魅力的な能登通信です。
 http://d.hatena.ne.jp/umiyamabusi/20060818

〔追記〕
「移徙」が「移徒」と誤って書かれているものも見かけました。
【徙】という漢字については、
http://www.eonet.ne.jp/~zhenwu/honbun/zoukan-5750.html

by kaguragawa | 2009-09-13 23:30 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

順太郎さんの家(瓢箪町)を訪ね、「菊見」を読む   

 旧・正田順太郎邸をやっと訪れることができました。正田順太郎って誰?、と問い返されそうです。正田順太郎は、徳田秋声の「金沢もの」と呼ばれる帰郷時のエピソードに取材した短編小説によく登場する秋声の兄(異母兄)です。徳田家の長男である直松が大阪へ出てしまって金沢には徳田家を継ぐ家がないため、法事などで帰郷するとき秋声は、正田家に養子に入った次兄・順太郎の金沢の家に滞在することになるのです。
 コレラで亡くなったためすぐに葬儀を出せなかった母の死後、幾日も滞在したのはこの兄の家であったし〔『菊見』〕、姉きんの葬儀が終った夜、ひと晩を過ごすのも兄のこの家であり、秋声はここから尾張町の裏通りにあったダンスホールに向かうのである〔『町の踊り場』〕。(それぞれ、1916(大5)年10月、1932(昭7)年8月)

 順太郎邸は、当時の町名番地でいうと金沢市岩根町九十七番地。現在は、瓢箪町7番6号。明成小学校裏の細い小路を入ったところに、当時のたたずまいを残していると思われる正田家はありました。(場所を明示するのに、瓢箪町保育園の真ん前といっても良いのですが、保育園の語がこのひっそりとした界隈に誤解を与えそうです。)
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 母の葬儀の前日、ここから徳田兄弟(直松、順太郎、末雄〔秋声〕)は、人力車を連ねて郊外・野田山の旧主家横山家の墓や寺町の横山家別邸の菊を見に行ったのですし、姉の葬儀の晩、秋声は踊り場を探しに家を出たのです。後に、患った順太郎を見舞ったのももちろんこの家でした。
 

 秋声記念館を訪ねた後、リファーレの書店で奥成 達『宮澤賢治、ジャズに出会う』(白水社/2009.6)を見つけ購入。金沢駅で列車を待つ合間に読み始めたが、おもしろい!。

〔追記〕
尾小屋鉱山所長としての正田順太郎については;
 *旧日記の「正田順太郎と尾小屋鉱山(1)」というページを参照ください。
 
〔追記:2〕
 実は、母タケが亡くなった93年前の1916(大5)年は、秋声にとっては最愛の娘・瑞子〔長女〕が享年12歳(満10歳)で亡くなった年でもありました。昨日7月17日が、瑞子さんの命日でした。

〔追記:3 7/20〕
 上の写真の右側が正田宅です。
 “三等寝台で疲れた融が、雨のなかを俥でそう遠くもない兄の家まで来たのは、お昼過ぎのことだった。白壁の蔵の棟が左手に見えて、二三本の松に石を配ったのが、門の荒い格子戸から望まれると、彼は「又兄の家へ来た!」とそぞろ懐かしく思うのだったが、何か憂鬱でもあった。”
 秋声は昭和9年の兄の見舞いを材にした短編『旅日記』で「兄の家」をこう書いています。秋声は、この小路を反対側から入ってきたようだ。白壁ではないが蔵の建物はそのまま残っている。

by kaguragawa | 2009-07-18 20:01 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

福野高校〔巖浄閣〕再訪   

 きょう、再び福野高校の「巖浄閣」(旧富山県立農学校本館)を訪ねました。前回は、吉田鉄郎の業績紹介と福野との関わりの展示を中心に見たため見そこなった画家・五島健三――吉田鉄郎の兄です――の紹介記事を読みたいという理由もありましたが、実は、この巖浄閣再訪にはもっと大事な用件がいくつかあったのです。とりわけ、前回訪ねた折、常設展の資料とは別に福野高校に保管されている稲塚権次郎関係資料を、“もし興味があれば見られませんか?”という有り難い申し出をいただいたがためである。おそるおそるというか図々しくもというか、このご厚意を受け、権次郎の母校の「富山県立農学校」(現・福野高校)の門をくぐったのでした。

 この学校のOBであるNさんにご同行いただいて学校内の資料室に足を踏み入れたのですが、大きな年表や説明資料・写真のほかに、なんとそこにはまだ充分に整理されていないままの権次郎の蔵書や写真、手紙などが保管されてあったのです。この宝の山のような資料を目にしただけでも私には感慨深いものがあったのですが、そのことについてはまた書く機会があるかも知れません。ここでは、同じ時代を岩手県で過ごした宮沢賢治にも思いをはせることになった資料についてだけメモしておきます。

 岩手県立農事試験場――。権次郎が勤務し、賢治も足を運んだことのあるこの農事試験場(賢治の高等農林の後輩・工藤藤一もいた)の当時の建物写真を目にすることができただけでも私にはうれしかったのですが、権次郎さんの遺された資料中には岩手県立農事試験場紹介の折りたたみ式の概要書や「岩手県立農事試験場五十年略史」などがあったのです。あらためて現在の地図と照合してみるつもりですが、この試験場の「本場」と「胆江分場」の紹介から本場の場所紹介の文章を摘記して、この訪問記の締めくくりにしておきます。(片仮名をひら仮名に直しました。)

 “岩手郡本宮村大字向中野に在り 仙北町駅(盛岡市)下車東へ仙北町通(国道筋)に出て南に二町程進み更に標本より西へ鉄道踏切を超えて約四町にて達す”

by kaguragawa | 2009-07-11 19:40 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(1)

福野高校〔巖浄閣〕にて(2)   

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 稲塚権次郎は、富山県立農学校の大正3年(1914)の卒業生です。恥ずかしいことに、稲塚権次郎の名前は石黒岩次郎とともに富山県の生んだコメの育成者として知ってはいたのですが、その経歴や業績についてはまったく知らなかったのです。この巖浄閣の常設展で、稲塚が鉢蝋清香とともに顕彰の展示がなされていることで、福野にあった県立農学校の卒業生であり、水稲農林1号につらなる陸羽132号の育成者であり、小麦農林10号の育成者であることも知ったのです。

 と言っても、「水稲農林1号」も「小麦農林10号」のことも知らない私は、農業にたずさわった先人として彼らの展示を見始めたのですが、鉢蝋清香の展示に《水稲「陸羽132号」と宮澤賢治》の手書きの説明があるのをみてドキっとしました。実は、今この項を書こうとしている私には、稲塚権次郎と宮沢賢治のすれ違いの、しかし重なり逢う「生」が少しは見えているのですが、時間を昨日の戻して、まずその場で写し取った説明をここに転記することにします。

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     水稲「陸羽132号」と宮澤賢治
 
 陸羽132号は、稲塚権次郎(旧城端町名誉町民)が、秋田陸羽支場で、寺尾博士、仁部富之助のもとで育成にかかわった水稲である。しかし権次郎は岩手県農事試験場に転勤となり、途中5代まで交配した種子を新潟農事試験場に送り、継続研究を委託する。そこには、偶然にも福野農学校の後輩である鉢蝋清香(旧平村名誉村民)が技手として勤務していた。そして、清香の手でついに世界に誇る早生水稲「農林1号」を完成させたのである。奇しくも福野農学校が生んだ偉才を放つ先輩と後輩とによる偉業であった。
 この農林1号をもとに、更に交配が重ねられコシヒカリ、ササニシキ等といった日本の優良水稲品種が多く育成されている。
 権次郎が育成に携わった「水稲132号」は、宮澤賢治が東北の飢饉を救うために心血を注ぎ、栽培を広く奨励した水稲である。この水稲により多くの人命が救われ、賢治は東北の人々から尊敬と絶大なる信頼を寄せられ、権次郎は「育種の神様」と賞讃される。
 賢治自身の詩集「春と修羅」の中の稲作挿話の中に、賢治がことのほかこの稲に思いを寄せていたことが綴られている。

by kaguragawa | 2009-06-28 19:44 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)

福野高校〔巖浄閣〕にて(1)   

 6/13に紹介した公開展「吉田鉄郎とふるさと南砺」(於:福野高校の巖浄閣(旧富山県立農学校本館/南砺市)に行ってきました。
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 この吉田鉄郎展にももちろん興味はあったし、この展示会がなければ出向くきっかけにならなかったことは確かなのですが、福野高校〔巖浄閣〕には、別の思いがありました。建築物というか文化財としての「巖浄閣」そのものを見たかったこと、明治大正期における「農学校」の存在の意味を考え直したかったこと(これは私の津田仙、内村鑑三、宮沢賢治への関心に繋がっています)、もう一つは極めて個人的なことがらなのでここでふれることは避けますが、そうしたいくつもの思いがあって今回の訪問となりました。

 予期せぬ発見もあり(帰宅後、それがある戸惑いともなりましたが)、いい時を過ごせました。

 ここでは予期せぬ発見であった「稲塚権次郎」のことについてだけ報告しておきます。

 *稲塚 権次郎 1897.02.24~ 1988.12.07

〔追記〕報告は、明日としました。

by kaguragawa | 2009-06-27 19:41 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(0)