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めぐり逢うことばたち(exblog版)   

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版(cocolog)「めぐり逢うことばたち」

      
  “伝記研究に際しては、いかなる調査も中途で放棄することこそ戒心すべきであろう。”
                              野口冨士男

  “身ビイキなしに特定の古典について何がなし得るか。”
                              堀田 善衞

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。
★かぐら川が管理人となっているブログ「堀田善衞の会 」は、〔ここ〕です。

by kaguragawa | 2019-12-31 23:55 | Trackback | Comments(17)

山本良吉の命日に――岸他万喜と山本良吉(2)   

 今日、7月12日は、前回の項で紹介した山本(金田)良吉の命日になります(1942[昭和17]年7月12日歿)。

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 ここでの話題の一人、岸たまき――。夢二ファンの方には多くを語る必要はないでしょうが、たまきは、夢二が絵画人生を歩み始めた若き日の同伴者で、夢二の戸籍上の唯一の妻です。離婚後、ついたり離れたりの愛憎ドラマが繰り返されますが、多くの女性との遍歴を重ねた夢二の最後を看取ったのも彼女たまきです。何より、美人画で知られる夢二の〈夢二式美人〉は、若き日のたまきをモデルとして描き始められたものであり、正式に絵を学ぶことのなかった夢二のアドバイザーであったとも言われています。たまきの初婚の夫が美術学校を出た日本画家であったことによるたまき側の絵の素養が夢二を助けたのだとも。

 しかし夢二の人生にからみついた恋多き女としてのみ描かれるたまき像が、たまきの人生をきちんと語っているものと言えるのか、大いに疑問です。夢二に出会う前のたまきはどんな女性だったのでしょうか。夢二と死別したのちの晩年のたまきの生はどんなものだったのでしょうか。

 たまきが生まれたのは、1882(明治15)年。たまき(他万喜)は、明治維新から十余年後に、もと加賀藩の地で司法の道に進んだ岸六郎左衛門(六郎)の娘として金沢町(金沢市)に生まれました。父の名前からもわかるように生まれは士族です。前回、紹介した山本良吉(金田良吉)が生まれたのも、岸家とほぼ同格の加賀藩の士族の家です。岸家も金田家も、金沢の小立野近辺にあった地縁によるのか、藩士として近い職務を担っていたのか、間にはいる‎人があったものか、岸六郎左衛門の妹・直(なお)が金田家の清三郎に嫁ぐことになります。そして、岸六郎左衛門(六郎)・順夫妻の三女?が「他万喜」、金田清三郎・直夫妻の三男が「良吉」なのです。

  *山本良吉(1871~1942.07.12) 母・直  =岸五郎右衛門長女
  *岸他万喜(1882~1945.07.09) 父・六郎 =岸五郎右衛門長男

 金田家の方は、武士の商法?として米穀商として維新を生きていくことになりますが、必ずしも順調ではなかったようで、金田夫妻を、司直の道に進んだ兄の岸夫妻が支援することもあったようです。そういうわけで岸家と金田家は親しい間柄を続けたようで、良吉は母の直に連れられてよく岸家に赴いたことを回想のなかで記していますし、野田山にあった金田家、岸家の墓に墓参したことを母との道行きの思い出とともに懐かしく振り返っています。

 では、このように親密な関係にあった〔金田家と岸家〕の〔良吉と他万喜〕。二人は、かなり異質なそれぞれの道を歩むことになりますが、従兄妹としては相親しく交わる間柄だったのでしょうか。10歳の年齢差で隣県で結婚することから生活を始めたたまきの方は、良吉のことは意識すること少なかったのではないでしょうか。
 しかし、若き日の二人のエピソードからは、相似た気質を感じることができるように思われます。それを文字にすれば「不羈」ということになるでしょうか。

 若き日の金田良吉の西田幾多郎、鈴木貞太郎(大拙)、藤岡作太郎らとの交友、師・北条時敬との交情については、あらためて書いてみたい。

〔追記〕
※7月12日は、鈴木貞太郎(大拙)の命日でもあります〔1870.11.11--1966.07.12〕。



by kaguragawa | 2019-07-12 23:33 | Trackback | Comments(0)

たまきの命日に――岸他万喜と山本良吉(1)   

 今日、7月9日は、このブログでなんどか話題にしたことのある岸たまき(他万喜)の命日になります(1945[昭和20]年7月9日歿)。

 その他万喜の命日の直前に、他万喜にかかわる新事実が判明しました。「新事実」といっても不明になっていたことを私が掘り出したわけではなく、たまきに因む一般に知られていない事実をある方から教えていただいたのです。そして、自分の不明を恥じつつ、思いがけないことを知り得たことを喜んでいる次第なのです。

 といっても、誰しもが、「えーっ、そうだったの!」という驚くといったものではなく、とてもマイナーな?話題です。

 たまきに関わる新事実は、ある人物に関わっています。その人物《山本良吉》のことを先に紹介しておかなければなりません。コトバンクに掲載されいる〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus〕のよればこうです。
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山本良吉
1871-1942 明治-昭和時代前期の倫理学者,教育者。
明治4年10月10日生まれ。金沢の第四高等中学の教育方針をきらい,同級の西田幾多郎らと退学。東京帝大を卒業し,三高教授,学習院教授などを歴任。大正11年旧制武蔵高創立に参加し,昭和11年第3代校長となった。昭和17年7月12日死去。72歳。石川県出身。旧姓は金田。号は晁水。著作に「中学研究」「倫理学史」など。


 多少、金沢出身の明治・大正期の人物のことを調べたことがあり、また、ある人物の出身校として〔旧制・武蔵高校〕のことを調べたこともある私にとっては「山本良吉」はたいへん親しい名前なのですが、上の説明のなかに出てくる西田幾多郎に比べれば、山本良吉はたしかにビッグネームとは言えないかもしれません。しかしながら、魅力いっぱいのユニークな人物なのです。


 〔金沢湯涌夢二館)もあり、〔金沢ふるさと偉人館〕で山本良吉の顕彰をおこなっている金沢市にとっては、竹久夢二やその妻・たまき(岸他万喜)と山本良吉は、貴重な人材資源のはずですが、岸たまきと山本良吉という二人の金沢人のつながりが話題にされたことは、私の知る限り、今までなかったのです。

 ある方からさりげなくご教示いただいたびっくりするような事実、それは山本良吉と岸他万喜が、従兄妹(いとこ)であったという事実なのです。

  *山本良吉(1871~1942.07.12) 母・直  =岸五郎右衛門長女
  *岸他万喜(1882~1945.07.09) 父・六郎 =岸五郎右衛門長男

(続く)


参考《山本良吉》:
〔金沢ふるさと偉人館HP〕
https://www.kanazawa-museum.jp/ijin/exhibit/13yamamoto.html
〔武蔵学園のHP〕
https://www.musashigakuen.jp/ayumi/kinenshitsu/tenzi/ryakuden/ryakuden10.html



by kaguragawa | 2019-07-09 22:22 | Trackback | Comments(0)

中谷宇吉郎と木田金次郎の『北海道』   

 中谷宇吉郎と木田金次郎の共著で『北海道』(1960/中外書房)という本があることを知った。この二人にどのような接点があったのだろうか、この本にもこの本の成り立ちを語る文章はない。7歳ほど木田の方が年長だが、亡くなったのは同年1962年。二人の共通項はまさに北海道という大地と、強いて言えば有島武郎であろうか、それとも中谷にもみられる強い絵心だろうか。

 思いのほか安価な古書を見つけ購入したが、残念ながら箱は欠損だらけのぼろぼろ。なんとか本文は読めそう。〔前半が木田金次郎の絵(スケッチ?)と文。後半が中谷宇吉郎の文(一部」写真と文)〕

 私が、木田金次郎の名を知ったのは有島武郎『生れ出づる悩み』の主人公?としてだが、その後いくつかの出会いがあった。そして最近、中谷宇吉郎の晩年のグリーンランドの雪氷研究を調べる中で、二人の晩年に『北海道』という共著があることを知った次第。この本の二人の文章のなかに、二人の接点を記した箇所があるのかも知れない。時間を見つけゆっくり読んでみたい。

*なお、中谷宇吉郎と木田金次郎の共通項として「有島武郎」を挙げたのは、「中谷宇吉郎年譜」(『中谷宇吉郎随筆選集第三巻』(朝日新聞社/1966)に、
「昭和十八年(1943)五月、ニセコアンヌプリ山頂の着氷観測所完成。昭和二十年(1945)八月終戦、ニセコの着氷観測所を解体。家族をニセコ山麓の有島農場に移す。」とあることによる。


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〔追記〕

 木田金次郎美術館の2012年秋冬展示で「木田金次郎と中谷宇吉郎」展があったようだ。


by kaguragawa | 2019-07-06 20:32 | Trackback | Comments(0)

映画モスラ制作中の堀田、中村、福永   

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   私の資料中にあった写真。どこからコピーしたものか記録がないので、無断使用となる。ご容赦を。
 左から、堀田善衞、中村真一郎、福永武彦。
 三人の連作『発光妖精とモスラ』ではモスラの幼虫が繭をつくるのは国会議事堂—―「日本国とロシリカ国は、相互の平和と安全を保障するために、すでに発効を見た条約を締結した。」その「軍事条約」を象徴する国会議事堂—―だが、東宝の映画「モスラ」(公開:1961.07.30)では東京タワーとなる。
 「繊維の一本一本が日をあびてキラキラ光る、長円形のマユが日本の中心にすわり込んでしまったのである。」


by kaguragawa | 2019-06-16 23:05 | Trackback | Comments(4)

津田仙の事業と人格の影響、を知る   

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 津田仙の学農社や「農業雑誌」にちなむ人物を追った二つの論考が入手できました。加納弘勝「津田仙の『農業雑誌』と地域への広がり―明治10年代と明治20年代の読者に注目して―」、下村明徳「学農社農学校卒業生による西洋野菜・果樹の普及活動」。

 この二つの論文からも津田仙の事業と人格の影響力がいかほどのものであったのかが見えてくる一方、その影響の及んだ人々の綺羅星のような活動にもいっそうの興味が惹かれる、そういう力作である。とりわけ、加納氏が自らの論文視角を、1〔学農社〕、2〔民業自奮〕、3〔多利の農業〕、4〔キリスト教的社会改良〕、5〔農民の「生活向上」〕の5つのポイントで整理して俯瞰図を描いてくださったことは、津田仙の事業の見取り図としても簡明で教えられるところの多いものでした。
(注:“2〔民業自奮〕は、津田が「自由を重し」と官位には無縁を貫き求めた、「物産興隆の道」としての「民業自奮」である。3〔多利の農業〕は、「欧米の運」をもたらすために農民に勧めた「幾多の収納」、「多利の農業」や「学理的農業」である。”という。)

 北陸の地に住む私にとって興味深いのは、下村氏が取り上げられた二人の北陸人「橘仁」と「阿閉政太郎」である。このブログで何度か断片的に取り上げた橘仁(甚兵衛)のことは、あらためて書きたいが、注目すべきは現在の松任市生まれで、津田仙に学んだのち金沢で西洋野菜を栽培し教育者として活動した阿閉政太郎である。阿閉政太郎については息子の阿閉温三の紹介文があるが、裏付けの十分にとれない記述が多い一方、関係した北陸学院関係の記録にも整合性のとれない部分があり、掘り起こしはこれからだと思われる。い

 いずれにせよ、津田仙の周りに独自な軌跡を描く衛星のような人物が輩出しており、それぞれの場でユニークな足跡を残していることは特筆すべきことであり、今後もそうした人物への丹念な後追いが続けられることで、今まで見えていなかった近代の特異な像を見せてくれるのではないか、というのが二つの力作に接した感想なのである。



by kaguragawa | 2019-06-10 23:14 | Trackback | Comments(0)

翁久允 ―研究の現在と展望―   

 今日、富山文学の会 第10回記念大会〈翁久允 ―研究の現在と展望―〉(富山市/高志の国文学館)に参加させていただきました。


 富山出身で“移民地文芸”の始祖ともされる翁久允(おきな・きゅういん/1888~1973)。が、久允が「週刊朝日」の編集者を経て創始した郷土誌「高志人(こしびと)」は、自らと多くの同志の郷土に向けられた熱い想いの結集点でもあった。

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 久允にはそれほどくわしくない私も、八木光昭さんのシアトル時代の久允にまつわる示唆に富む研究(レジメに久允がエレベーターボーイを務めていたButlerビルの写真が!)、久允の娘さんで与謝野晶子研究者の逸見久美さんの対談中にふれられた、戦中の久允に向けられた戦中の特高監視への糾弾の声、お孫さん須田満さんの久允書誌作成から見えてきたもの、書誌作成の重要性と要諦を語られる話には、心を動かされました。


by kaguragawa | 2019-04-20 22:50 | Trackback | Comments(1)

《一青》について (2003年稿を再掲)   

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 あるところで、「ハナミズキ」の一節≪つぼみをあげよう庭のハナミズキ≫を引用したら、「かぐら川さん、かつて一青窈の姓《一青》について書いておられましたね。あれはどこにあるのですか」と尋ねられました。古いデータを倉庫?から引っ張り出したら、ありました。なんと、16年も前、一青窈デビューの翌年に書いたもので、同じ内容のものが当時なかったので、net上ではいろんなところでリンクされていたのを覚えています。今あらためて検索してみると、《一青》について、かなり多くのサイトがあるようで、びっくりしました。なにせ“平成”の大歌姫ですもんね。
 ・・・というわけで、16年ぶりに(その間に「ハナミズキ」がある)、2003年当時のまま自分の記録として再掲載することにしました。


 頭の隅にずっとひっかかっていたのですが・・・。
 昨年〔2002年〕末「もらい泣き」でデビューした歌手の一青窈(ひとと・よう)さん。 変った姓だなと思いながら、“どこかで、どこかで、”と思っていたのが思い出せなかったのですが、判明しました。

 《一青》は、能登にある地名でした。中能登の鹿島郡鳥屋町(とりやまち)に〔一青(ひとと)〕という地名があるのです。延喜式の古社・鳥屋比古神社(とやひこじんじゃ)の近くの地名として私の記憶にあったのです。近くに黒氏という変った地名もあります。

 一青窈さんのオフィシャルサイトを見て、お父さんが台湾の人、お母さんが日本人とは、すぐにわかったのですが、いくつか関連するHPを見ていて、はっきりしたことは、お母さん〔一青かづ枝〕さんが、この鳥屋町の出身だという、うなってしまうような事実でした。
 「もらい泣き」も入っているCD『月天心』のブックレットの最後に《お父さんお母さんお姉ちゃん わたしは幸せです》とメッセージを載せて
いますが、お父さんは、台湾生まれの彼女が母・姉と共に日本に渡った数年後、小学校(横浜の森村学園)2年の時に、お母さんは高校2年のときに亡くなっておられるようで、そうした孤独な異郷体験が彼女の詩と歌に反映しているような気がしてきます。

 この鳥屋町、能登半島の付け根のところに今、邑知潟(おうちがた)として残る大地溝帯の末端(山手側)部分で、かつては沼沢地だったらしいのですが、そこに棲んでいた“真っ白な体に一部分だけ青い羽を持ったシトトという鳥”が、一青という不思議な地名の由来であるとか・・・。
 (能登は、なんと羽咋、鳳至と鳥に関する伝承の多いところです。)

 ぜひ、彼女のCD、手にとって彼女の詩をのぞいてみてください。
不思議なところから私の能登に寄せる“憧れ”は、どんどん強くなってきます。

〔追記:2009.5.4〕
・地名「一青」については、
角川の『日本地名大辞典17 石川県』と吉川弘文館の『日本荘園史大辞典』の引用が次のページにあります。 http://s.freepe.com/std.cgi?id=united&pn=07  (←リンク切れです。2019.04注)
・「鹿島郡鳥屋町」は、2005(H17)年3月1日、合併によってから「鹿島郡中能登町」になっています。

by kaguragawa | 2019-04-09 22:02 | Trackback | Comments(0)

この四人は誰ぞ?   

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1939(昭和14)年、信濃追分(西軽井沢)。この四人は誰ぞ?
中村真一郎、山崎剛太郎、野村秀夫、小山正孝の諸氏だそうな。
(猿渡重達『追憶の野村秀夫』1981.3より)


by kaguragawa | 2019-02-15 22:20 | Trackback | Comments(2)

二・八独立運動から100年の日に   

 久しぶり読んだ中塚明さんの『近代日本と朝鮮』から。

 米騒動のころ、日本には約800名の朝鮮留学生がいたが、1918(大正七)年の暮ごろから、彼らのあいだでも独立運動が活発になっていた。そして東京にいた約600名の朝鮮人学生は、早稲田大学政治学科の崔八鏞らの指導のもとに1919年2月8日、神田小川町の朝鮮人基督教青年会館に集まり、独立宣言と決議を発表、公然たる独立運動の烽煙をあげた。
 その宣言は、アメリカとイギリスが、日本による朝鮮の「保護」と「併合」を率先して承認したことを鋭く指摘し、ロシア革命で帝政ロシアがうちたおされたいま、「韓国併合」の最大の理由はなくなったとして、朝鮮の独立と自由を要求するとともに「日本がもしわが民族の正当な要求に応じないならば、わが民族は日本に対して永遠の血戦を宣するであろう」と宣言した。—―もちろん、この大会は日本官憲のはげしい弾圧を受け、指導者は逮捕された。しかし、朝鮮人学生はあとからあとへと繰り返し集会をひらき、議会へ陳情やや逮捕への抗議をつづけた。
 いっぽう東京の朝鮮人学生の半数は、郷里に帰り、独立運動の準備をはじめた。彼らはやがて起こる三・一運動の全国への波及をたすけるうえで重要な役割を果たすのである。

 
※100年前の2月8日は雪の日だったようです。文中の「朝鮮人基督教青年会館」は、「神田小川町」となっているが、正確には「神田区西小川町2丁目5番地」ではなかろうか。





by kaguragawa | 2019-02-08 23:26 | Trackback | Comments(1)