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めぐり逢うことばたち(exblog版)   

・2003年5月以来の日記版「めぐり逢うことばたち」  (web上から消滅)
・2009年6月29日までのブログ版(cocolog)「めぐり逢うことばたち」

      
  “伝記研究に際しては、いかなる調査も中途で放棄することこそ戒心すべきであろう。”
                              野口冨士男

  “身ビイキなしに特定の古典について何がなし得るか。”
                              堀田 善衞

 *右上の写真は、二上山(高岡市)

〔追記〕
三島霜川について旧日記上に書いた記事は、閲覧できなくなりましたが、近いうちにこのブログに移す予定です。(2011.75)

●このexblog版「めぐり逢うことばたち」上の三島霜川関連記事は、〔ここ〕です。

★かぐら川が管理人となっているブログ「夢二を歩く」は、〔ここ〕です。
★かぐら川が管理人となっているブログ「堀田善衞の会 」は、〔ここ〕です。

by kaguragawa | 2019-12-31 23:55 | Trackback | Comments(17)

翁久允 ―研究の現在と展望―   

 今日、富山文学の会 第10回記念大会〈翁久允 ―研究の現在と展望―〉(富山市/高志の国文学館)に参加させていただきました。


 富山出身で“移民地文芸”の始祖ともされる翁久允(おきな・きゅういん/1888~1973)。が、久允が「週刊朝日」の編集者を経て創始した郷土誌「高志人(こしびと)」は、自らと多くの同志の郷土に向けられた熱い想いの結集点でもあった。

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 久允にはそれほどくわしくない私も、八木光昭さんのシアトル時代の久允にまつわる示唆に富む研究(レジメに久允がエレベーターボーイを務めていたButlerビルの写真が!)、久允の娘さんで与謝野晶子研究者の逸見久美さんの対談中にふれられた、戦中の久允に向けられた戦中の特高監視への糾弾の声、お孫さん須田満さんの久允書誌作成から見えてきたもの、書誌作成の重要性と要諦を語られる話には、心を動かされました。


by kaguragawa | 2019-04-20 22:50 | Trackback | Comments(0)

《一青》について (2003年稿を再掲)   

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 あるところで、「ハナミズキ」の一節≪つぼみをあげよう庭のハナミズキ≫を引用したら、「かぐら川さん、かつて一青窈の姓《一青》について書いておられましたね。あれはどこにあるのですか」と尋ねられました。古いデータを倉庫?から引っ張り出したら、ありました。なんと、16年も前、一青窈デビューの翌年に書いたもので、同じ内容のものが当時なかったので、net上ではいろんなところでリンクされていたのを覚えています。今あらためて検索してみると、《一青》について、かなり多くのサイトがあるようで、びっくりしました。なにせ“平成”の大歌姫ですもんね。
 ・・・というわけで、16年ぶりに(その間に「ハナミズキ」がある)、2003年当時のまま自分の記録として再掲載することにしました。


 頭の隅にずっとひっかかっていたのですが・・・。
 昨年〔2002年〕末「もらい泣き」でデビューした歌手の一青窈(ひとと・よう)さん。 変った姓だなと思いながら、“どこかで、どこかで、”と思っていたのが思い出せなかったのですが、判明しました。

 《一青》は、能登にある地名でした。中能登の鹿島郡鳥屋町(とりやまち)に〔一青(ひとと)〕という地名があるのです。延喜式の古社・鳥屋比古神社(とやひこじんじゃ)の近くの地名として私の記憶にあったのです。近くに黒氏という変った地名もあります。

 一青窈さんのオフィシャルサイトを見て、お父さんが台湾の人、お母さんが日本人とは、すぐにわかったのですが、いくつか関連するHPを見ていて、はっきりしたことは、お母さん〔一青かづ枝〕さんが、この鳥屋町の出身だという、うなってしまうような事実でした。
 「もらい泣き」も入っているCD『月天心』のブックレットの最後に《お父さんお母さんお姉ちゃん わたしは幸せです》とメッセージを載せて
いますが、お父さんは、台湾生まれの彼女が母・姉と共に日本に渡った数年後、小学校(横浜の森村学園)2年の時に、お母さんは高校2年のときに亡くなっておられるようで、そうした孤独な異郷体験が彼女の詩と歌に反映しているような気がしてきます。

 この鳥屋町、能登半島の付け根のところに今、邑知潟(おうちがた)として残る大地溝帯の末端(山手側)部分で、かつては沼沢地だったらしいのですが、そこに棲んでいた“真っ白な体に一部分だけ青い羽を持ったシトトという鳥”が、一青という不思議な地名の由来であるとか・・・。
 (能登は、なんと羽咋、鳳至と鳥に関する伝承の多いところです。)

 ぜひ、彼女のCD、手にとって彼女の詩をのぞいてみてください。
不思議なところから私の能登に寄せる“憧れ”は、どんどん強くなってきます。

〔追記:2009.5.4〕
・地名「一青」については、
角川の『日本地名大辞典17 石川県』と吉川弘文館の『日本荘園史大辞典』の引用が次のページにあります。 http://s.freepe.com/std.cgi?id=united&pn=07  (←リンク切れです。2019.04注)
・「鹿島郡鳥屋町」は、2005(H17)年3月1日、合併によってから「鹿島郡中能登町」になっています。

by kaguragawa | 2019-04-09 22:02 | Trackback | Comments(0)

この四人は誰ぞ?   

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1939(昭和14)年、信濃追分(西軽井沢)。この四人は誰ぞ?
中村真一郎、山崎剛太郎、野村秀夫、小山正孝の諸氏だそうな。
(猿渡重達『追憶の野村秀夫』1981.3より)


by kaguragawa | 2019-02-15 22:20 | Trackback | Comments(2)

二・八独立運動から100年の日に   

 久しぶり読んだ中塚明さんの『近代日本と朝鮮』から。

 米騒動のころ、日本には約800名の朝鮮留学生がいたが、1918(大正七)年の暮ごろから、彼らのあいだでも独立運動が活発になっていた。そして東京にいた約600名の朝鮮人学生は、早稲田大学政治学科の崔八鏞らの指導のもとに1919年2月8日、神田小川町の朝鮮人基督教青年会館に集まり、独立宣言と決議を発表、公然たる独立運動の烽煙をあげた。
 その宣言は、アメリカとイギリスが、日本による朝鮮の「保護」と「併合」を率先して承認したことを鋭く指摘し、ロシア革命で帝政ロシアがうちたおされたいま、「韓国併合」の最大の理由はなくなったとして、朝鮮の独立と自由を要求するとともに「日本がもしわが民族の正当な要求に応じないならば、わが民族は日本に対して永遠の血戦を宣するであろう」と宣言した。—―もちろん、この大会は日本官憲のはげしい弾圧を受け、指導者は逮捕された。しかし、朝鮮人学生はあとからあとへと繰り返し集会をひらき、議会へ陳情やや逮捕への抗議をつづけた。
 いっぽう東京の朝鮮人学生の半数は、郷里に帰り、独立運動の準備をはじめた。彼らはやがて起こる三・一運動の全国への波及をたすけるうえで重要な役割を果たすのである。

 
※100年前の2月8日は雪の日だったようです。文中の「朝鮮人基督教青年会館」は、「神田小川町」となっているが、正確には「神田区西小川町2丁目5番地」ではなかろうか。





by kaguragawa | 2019-02-08 23:26 | Trackback | Comments(1)

射水郡立農業公民学校と南原繁(3)   

 目をこらし耳をすませば、私がいま住んでいるこの射水の地から、100年前の南原繁の若き日の理想を、今も、いくつも、感じとることができるのではないか。


 次は、1月18日に行われた送別会での南原のあいさつ。
(「高岡新報」(1919.1.19)から。表記はかなり変えました。)

 一通の電信は今たちまち余の身分を数百里の外に置けり。数百町歩にわたる湿田の排水事業なりて土地肥え穀物豊かに稔りて郡民撃壌の光景。あるいは高伏運河の大事業なりてこの付近一帯に煙突林立しマンチェスター日本の大阪を見るがごとき活発なる商工都市の現出したる光景。またあるいは、公民教育を了したる有為の青年が続々として輩出し所在農村の中堅となり勇ましく自ら本郡をその双肩に背負い立てる光景。
 これはことごとく美わしき絵巻物となりて余の胸に残れり。しかして余は今やこの美わしき絵巻物を抱き、懐かしき土地懐かしき各位と別れて、明日は早や高岡駅頭を出発せんとするなり。想えば哀しき今日の日よ、余や在職一年有十ケ月、その間幾多の懸案を事業を残したるのみにて、何らのなすところもなかりしが、唯一つ各位の篤き友情を得たるは、何物にも代えがたき満足とするところなり。願わくは各位健在たれ。


by kaguragawa | 2019-02-03 18:43 | Trackback | Comments(0)

射水郡立農業公民学校と南原繁(2)   

 南原宛ての電話がいつ架かかってきたのか、南原がいつ射水の地を去ったのか、判然としない。

 射水郡の郡会が始まったのは1919年1月8日。内務省本省からの南原宛ての電話は10日か?。そして南原は、前射水郡長として郡会の成り行きを気遣いながら射水を離れる・・・。1月18日のことだったか、19日だったのか?。
 前年の1918年1月の北陸が大雪だったことは知られているが、1919年の1月はどうだったのか?。

 ちなみに1月18日に、第一次世界大戦の戦後処理のパリ講和会議開始。28日はウェーバーのあの『職業としての政治(Politik als Beruf)』の講演がミュンヘンで行われている。


by kaguragawa | 2019-02-02 22:04 | Trackback | Comments(0)

射水郡立農業公民学校と南原繁(1)   

 (以下、南原繁の小杉高校での講演〔1961.11.21〕から)

 大正八年一月〔1919.1〕、射水郡の郡会において、本校〔小杉高校〕の前身射水郡立農業公民学校の案が提出されたときに、私は予算の説明の中にこの物語をひいてお話を申しました。
 このことは当時の郡会の議事録に載っているはずで、当時考えましたのは、富山県の射水平野に根を張っている教育、産業、経済を踏まえて、当時の中学校のごとき上級学校への予備校的存在でなく、この地に根を下ろした学校を作ってはと考えたのです。他方、単に農業に関する技術の教育だけでなく、眼を天に向け、人間としての教養を高める青年の出ることを念願したのです。本校が農業公民学校という名をとったのはその意味です。(中略)アテネの学校の例をひいて、郡会へ予算の説明をする時、数日の休会後、いよいよ郡会の審議を願うというときに、電話一本で現在の自治省へ呼び返され、役人という者のなんとさみしいかをしみじみとその時感じさせられたことです。


by kaguragawa | 2019-01-25 23:48 | Trackback | Comments(0)

『メドヴェージ村の日本人墓標』   

 『メドヴェージ村の日本人墓標――日露戦争虜囚記』(才神時雄/中公新書/1983.7)。

 古い本ながら(昨年入手)今さら読み読了後、しばらく言葉を失いました。


追記:2019.01.14
 著者の才神時雄(サイカミ・トキオ/1917.03.05~1990.08.01)については、青山淳平(河野健)さんに『人、それぞれの本懐――生き方の作法』(社会思想社/1999.07)という紹介があるよし。

by kaguragawa | 2019-01-13 19:37 | Trackback | Comments(0)

三島霜川の「馬肉」を   

 年末に至り三島霜川の「馬肉」を読む。数年ぶりである。初出がいつだったか資料が手元にないが、今回は、『千波万波』に収められたもの。

 以前読んだときは、フーンと思った程度でしたが、今回、『千波万波』所収の版であらためて読んでみると、以前の読みが、ストーリを追った程度の浅いものだったことに愕然とする。文学研究者ではない私には、この「馬肉」が文学としてどういう評価を受けるのかわからないが、「馬肉」に描かれた明治40年代初頭の一つの人間像、――描かれているのは、32歳の社会の片隅にようやく生きることを許されている工場労働者だ!――、さらにその描き方には興味をひかれる。この当時、こんな人間をこんな風に描いた作品があったのだろうか。
 そもそも、明治40年代初頭に、工場労働者の負の生を描いた文学はどれほどあるのだろう、思い浮かぶものがない。そして彼〔蒲田〕は、霜川の明治40年前後の作品「解剖室」「虚無」などの登場人物に共通する“影”を負った「異端」の人間であり、その典型とも言ってよい人物(その意味では霜川文学の「正統」な人物)だろう。そもそも月島の路地の「馬肉屋」というのが、対岸の銀座、築地にとって「異端」であろう。

 現代の日のあたらない隅にもこうした生を送っている人間がいるだろう。いや、ここに描かれているのは、弱者の境遇に追いやられた現代の社会的病者の先取りなのではないかとさえ――ということを、説得力をもって語れる自信はないが――思えてくるのだ。


追記:2019.1.5
「馬肉」の初出は、『江湖』(明治41年5月1日号)

 ※『江湖』
    明治41年(1908)3月~8月
    発行所 江湖社
     https://myrp.maruzen.co.jp/book/ysd_a_gc12418/

再収
『千波万波』大町桂月・樋口龍峡 共編(日高有倫堂/明治42.7)
『千波万波』大町桂月・樋口龍峡 共編(松本商会出版部/大正5.2)再版


by kaguragawa | 2018-12-30 23:19 | Trackback | Comments(0)