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2009年 12月 19日 ( 2 )   

5年前の、賢治を東京に訪ねる旅   

 自分の「覚え」のために、日記に書いた5年前の「賢治を東京に訪ねる(尋ねる)旅」を再録しておきます。

■2004/11/14 (日) 「雲台館」の賢治を訪ねる(1)

 三丁目坂。こんな名前がつく坂を――いつついたのだろう新しい名前のはずだ――護国寺に向かう広い音羽通りの警察署〔大塚署〕のところから西に登る。かなりの勾配で視線がどうしても足元に落ちてしまう。
 東京のこの坂道を、賢治は毎日(2カ月余)行き来したはずなのである。おそらくその賢治も、ときには雪でぬかるんだこの坂を、目線をいつも下に落としながら、ではなかったろうか……。

 今は、文京区目白台三丁目。宮沢賢治が訪れた大正七年(1918)には、「東京市小石川区雑司ケ谷町」。
 前後のいきさつは、調べていない私には正確に記述できない。が、日本女子大学に在学中だった妹・トシが、高熱を出して入院との報に、賢治と母イチは、年も押し迫った12月27日、急遽、花巻から上京。おそらく宮沢家と旧知であった日本橋の小林六太郎氏がこれも急遽、その病院の近くの宿を探し出し、この親子に世話したのだろう。
 賢治の手紙にトシが入院する「永楽病院」として登場するこの病院は、東京帝国大学附属病院・小石川分院。平成13年に閉院しているものの、いまだ目白台三丁目の坂を音羽通りから登ったところにその広大な敷地のまま建物は残っている(賢治の頃の建物ではないが)。

 “拝啓 今朝無事着京致し候 午後二時永楽病院にて面会仕り候処 別段顔色も悪からず言語等常の如くに御座候
 昨日は朝三十八度 夜三十九度少々 咽喉を害し候様に見え候”

 (この12月27日から翌年の2月6日までほぼ毎日の父への報告書簡の残るその葉書の第1号である。ちなみに、賢治の父あての書簡は、すべて[候文]である。)

 賢治は病院から数分のところ、「雲台館」という名の宿(宿といっても下宿のようなものだったのだろう)から、毎日(おそらく朝と夕方)病院にトシを見舞ったのだ。

 賢治を東京に訪ねる旅。今回は、この「雲台館」と、私の方も“急遽”決めたのでした。


■2004/11/16 (火) 「雲台館」の賢治を訪ねる(2)

 「ここは、あの菊坂の谷間……」。桂林寺横の「雲台館」があったという小路に入り込んだとき、身に迫ってきた不思議な思いでした。

 雑司ヶ谷の一画、ここは――この時の2年後、賢治が花巻を突然飛び出し、日蓮宗の在家集団《国柱会》に通い、多くの童話の萌芽を自らのものにした――あの本郷菊坂の下宿の雰囲気と同じなのです。
 何が、どう、同じなのか。そのとき、この雑司ヶ谷の小路で自分が何を感じていたのか、うまく伝える言葉がないのですが、ひとことで言えば、日の射し方でしょうか・・・。独特の地形によってこの雑司ヶ谷の寺の脇も、菊坂の谷間もなにか、「異界」といった趣があるのです。もちろん一過の旅人に過ぎない者の、たわいもない感想ですが。

 実は、この日(先週の土曜日)ここを訪れたのは、音羽通りからではなく、日本女子大→帝国(東京)大学附属病院の順でした。大学の横から少し歩くと、周囲を独特な塀で囲まれた病院跡地(正門前)に行き着くのですが、ここからは、道が音羽通りの方に、少しカーブしながら落ち込んでいくのが見えるのです。無人の病院前から歩を進め、わずかな勾配が深い勾配に変わるところに、建物のかげになった小路が(突然!)、あらわれてここをきっちりと右に折れたところが、不思議な袋小路(実は、袋小路ではないのですが)なのです。

 私有地と断わりのある小路(すなわち私道)の右側は、一段高い台地?の擁壁。左側に何軒か住宅があるのです。明治時代の古い地図は確かに袋小路になっていてこの小路は、臨済宗の禅寺・桂林寺にぶつかって行き止まりになっています。いずれにせよ道は車の入り込めない細さになり、今は、桂林寺の正面に出るようになっています。

 「雲台館」という名前からアパートのような大きさのものを以前は想像していたのですが、、ここに貴重な資料があり、これが戦後、国鉄の独身寮〔六畳間4室、四畳半7室、三畳2室〕だったという記録されているのです。実際、少し大きめな民家だったと思われます。
(奥田弘「宮澤賢治の東京における足跡」(1966(昭41)〔1975(昭50)補筆〕)

 ・・・ここには確かに宮沢賢治ならではの世界が――賢治が生み出した作品の世界ではなく、賢治の作品を生み出した世界が――厳存していた、そんな風に思えたのです。そうして私は、一本のイチョウが樹つその小路から出、もう一度坂を登って、病院の跡地に向かいました。坂の左手に小さな喫茶店を見ながら。


■2004/11/17 (水) ある問いかけ

 《「雲台館」の賢治》なるものを書き出して、収拾のつかない状況になってきました。おそらく、適当に打ち切ることになると思いますので、ご了承ください。

 それはさておき、実はこの不思議な――と言っても私はこの地に生活をもたない素通りの人間なわけですが――小路で、私は長い間過ごしました。
 おそらくこの小路は、今ではある場所からある場所への短絡路になっているらしくけっこう人通りはあるのですが、そこで私は不審な人物として、何回も道を行ったり来たりし、座り込んでは奥田氏の論文のコピーを取り出して読んだり、しました。小路を出て、坂道を登ったり下りたりし、音羽通り脇のかつての弦巻川を暗渠化した上に架された首都高速5号線の下をくぐって音羽通りに出たりどれだけの時間を過ごしたでしょうか。

 「雲台館」が後に国鉄の所有になり独身男子寮になったことは、書きましたが〔11/16〕、今ではその独身男子寮としての建物もありません。(道路も含んだ)この地所の所有者であると奥田論文に書かれているT家の古い二階建ての建物が、かつての袋小路の行き当たりにあるのですが、それが元「雲台館」なのか、その隣の新しい二階建てがそうなのか、まったく手掛かりはありません。

 あたりが大分暗くなってきたころ、ちょうどある一軒の家から出てこられた若くはない二人のご婦人に声を掛けてみました。
  「ここに、国鉄の独身寮があったはずですが、どこでしょう?。」

 その方の驚いた顔と言ったら・・・
  「あなたそこにお住まいになってらっしゃったの?。もうありませんよ。あれは、タケシがまだ・・・」で、ほぼ絶句という状態でした(少し、誇張しましたが)。
そして、私は、かつての「雲台館」が、今は立て替えられていることを知ったのでしたが。

 そしてその老婦人は、何度も何度も振り返って、私が立ち去らないでいることを不思議そうに眺めて道を曲がっていかれたのでした。


 翌日曜日のことです。私は瀧廉太郎が住んでいたという一番町に立ち寄って、道に迷いながら突き当たったところが、靖国神社でした。

 「靖国」、――この問題にきちんとした答をだすことに、ここではご猶予を願うとして、雑な話を続けます。――私は躊躇しながら、境内に足を踏み入れました。来てよかったと今ここで書けるのは、いくつかのことがらです。
 斎藤弥九郎の神道無限流の道場跡(飯田町俎橋から後に移った場所)が、この境内の隅(南門近く)にあることを偶然知ったこと。ここに「元宮」と呼ばれるもの――幕末に倒れた志士の御霊をなぐさめるために京都の同志たちが幕府にかくれてひそかに建てたものと説明があります――があるということ。
 そして、ある「問いかけ」に出くわしたことでした。

 境内の案内図にある「元宮」を探して拝殿の左側に回りこんだときでした。そこには、「・・・師団」とか「・・・軍人会」だとかの――おそらく戦争から帰還された方々の同志を弔い旧交を温めるための――記念樹がずっと植わっているのです。
 ここで、突然、ある男性に声を掛けられたのです。

  「モッコクはオスとメスの樹があるのですか?。花が咲くのと咲かないのが・・・」

 見も知らぬただの通りすがりの私に、真剣に寄せられたこの問いかけは、何だったのしょう?。偶然そこに通りかかった私が、植物学者に見えたのでしょうか??。「モッコク」。そうです、《木斛》の樹のことなのです。
 拝殿横の道に沿って手植えされている記念樹の多くが、なぜか「モッコク」なのです。でもその男性にとって、この問いは、どういう意味をもつものだったのでしょう。なぜ、それを知る必要があったのでしょう?。その男性にとって、私は誰だったのでしょうか?
 私が、「樹花」を、自分の日記?のタイトルに並べていることを、その男性は知っていたのでしょうか?????。

 私が発した「問いかけ」。私に発せられた「問いかけ」。
 二つの問いかけが投げかけた波紋、今も、そのまま広がり続けています。

〔追記〕
 モッコク(木斛)は、たしかに雌雄異株の樹です。


■2004/11/19 (金) 「雲台館」の賢治を訪ねる(3)

 わたしが、宮沢賢治を教科書の圏外で知った「虔十公園林」という作品。
童話なのだろうが、そのリアリティはどんなノンフィクションをも超えている不思議な作品である。

 “さて虔十はその秋チブスにかかって死にました。平二も丁度その十日ばかり前にやっぱりその病気で死んでしまいました。
 ところがそんなことには一向構わず林にはやはり毎日子供らが集まりました。”
 

 きょう、久しぶりにこの作品を読んできて、ここまできてアッと叫んでしまいました。ずっとあたまにこびりついていた賢治の父親宛の手紙〔大正七(1918)〕の一節がそのまま蘇ってきました。

“チブス菌は検出せられざりしも熱型によれば全くチブスなり” 
 高熱の続く妹トシを診断した二木謙三博士のことばを伝えた文章です。
“今後の病状は先づ大抵は減退なるべきも万一更に昂進する場合なしと言ひ難し。”

 トシの病状を逐一報告する四十通を超える父親への手紙。この手紙を私は東京へ向かう列車の中で読み、賢治がトシを毎日見舞った東京の雑司ヶ谷(目白台三丁目)の坂道の喫茶店でも読み返しました。
 (けっきょく、トシはチブスでなかったことが判明するのですが、こうしたチブスとの遭遇は、やがて賢治の生き写しとみられる「虔十」と、屈折した賢治=父親の生き写し「平二」のいのちを奪うチブスへと姿を変えて「虔十公園林」に突出することになる・・・。そう言えば、トシ的存在を排除した「虔十の家族」のことを今、考えています。)

 そして病状報告のなかに突如あらわれる賢治の《運命のモティーフ》。

 “尚当地滞在中私も兼て望み候通りの職業充分に見込相附き候。蛋白石、瑪瑙等は小川町水晶堂、金石舎共に買ひ申すべき由・・・”

 22歳の賢治は2か月余、東京で何を考えていたのか。「小川町水晶堂、金石舎」はいまも残っているのだろうか。


■2004/11/20 (土) 賢治とチブス(「虔十と平二」暫定稿)

 非常にうかつだったのですが、チブス(=チフスの濁音化形、誤用)と賢治の遭遇は、盛岡中学卒業時(大正三年〔1914〕)の鼻炎治療のときに始まっていました。(看護婦への片想い(初恋)の話題として知られる岩手病院入院です。)
 そのとき、高熱が出、発疹チフスの疑いをもたれたのです。そして看病にあたった父親も!、倒れてしまうという事態にいたります。
(父・政次郎と賢治の確執の精神史の始まり!)

 虔十公園林における、「虔十と平二」を、「賢治と政次郎」に置きかける「読み」(11/19)は、誤読ではないという思いを強めましたが、いかがでしょう。
(賢治が、自らをkenjuと記していたことは、知られていますが、平二と政次〔郎〕の発音の類似の方が注目です。「虔十公園林」における虔十の父親像と政次郎との対蹠的な記述にも留意。)

 *大正三年の歌稿から

  どこまでも検温器のひかる水銀がのぼりゆく時目をつぶれりわれ
  つゝましき午食の鰤を装へるはたしかに蛇の青き皮なり
  目をつぶりチブスの菌と戦へるわがけなげなる細胞をおもふ 
  十秒の碧きひかりは去りたればかなしくわれは又窓に向く
  粘膜の赤きぼろきれのどにぶらさがり父とかなしきいさかひをする


 ところで、チフス〔typhus〕の語源は、台風〔typhoon〕の語源とも言われるギリシャ神話の風と関わりをもつ巨神テュポンではなかろうか。


■2004/11/21 (日) 「雲台館」の賢治を訪ねる(4)

 目白台の三丁目坂の小さな喫茶店での――私はここで歩きづめだった3時間の疲れをいやしながら筑摩文庫の「宮沢賢治全集9」の書簡集の大正七~八年の分を読んだのですが――そこで出逢ったアッちゃんというかわいい子犬と近くの筑波大附属盲学校の生徒さんの話は割愛させてもらうとして;

 この2か月余、賢治は妹トシにつきっきりで看病したわけではない。彼自身、自分の健康報告を父に求められる状況で、伝染病の疑いのある妹には距離をおかざるを得なかったのである。
 盛岡高等農林を卒業後、暫定的に研究生として残るも定まった道を見出せず、賢治も六月には病を得ている。トシ高熱で入院との知らせに最初は重い心で東京に出てきたことだろうが、トシの病状が軽快に向かうにつれ、賢治の好奇心はまた旺盛に動き出していることも書簡からうかがえる。上野図書館、日比谷図書館・・・。

 今あらためて、この大正七年からトシの死にいたる数年間の賢治の年表を追ってみると、不思議な感慨にとらわれます。が、そうしたことを書くには、まだまだ熟せざるものが多いことに気づいて、この《「雲台館」の賢治を訪ねる》は、この辺で切り上げておきたいと思います。

 なお、賢治が人造宝石の製造販売を夢み、父親への書簡中に名を挙げた宝石商「小川町水晶堂、金石舎」は、それぞれ水晶堂ビル、金石舎ビルという名で、今もその地に――神田の小川町交差点近く繁華な靖国通りに面して――名を残していることを報告しておきます。
(それぞれ神田小川町2-2・神田小川町1-8)

by kaguragawa | 2009-12-19 10:10 | 街歩き/たてもの | Trackback | Comments(2)

冬の深い夜   

偶然つけたテレビは「NHK音楽祭2009ハイライト」。

ヴェルディの“レクイエム”の圧倒的な力に、ただひたすら感動しています。


そしてそのレクイエムとは別のところで、すっぽりと寒気につつまれ雪ふりしきる深夜、みずからの来し方が妙になつかしくもいとおしくも感じられてきました。

ヴェルディ/レクイエムとは対極的な位置にあるのかも知れませんが、良寛の『草庵雪夜作』が思い起こされてきました。


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by kaguragawa | 2009-12-19 00:32 | メモ ひとこと | Trackback | Comments(0)