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瀧廉太郎――櫻井信彰、高塚鏗爾のこと(1)   

 富山には滝廉太郎に直接、間接に関わる人が思いのほかに多い。
 東京音楽学校の廉太郎の学友で、廉太郎の死後、富山県に関わることになった人のことだけをメモしておきます。

 次稿に、『東京音楽学校卒業生名録』(大正十五年十月)から、廉太郎の卒業年次である明治31年前後の、卒業生の名前を本科専修部の生徒の分だけ写しておきます。ご覧ください。〔「明治三十一年七月卒業」の筆頭に「滝廉太郎」の名前があります。〕

 一学年上に、《桜井信彰》の名前が見えます。櫻井信彰(さくらい・のぶあき)は弦楽器の名手だったようです。在校当時も、演奏会で滝のピアノ、櫻井のヴァイオリン、一学年下の益山鎌吾のチェロの三重奏でブラーガ (Gaetano Braga) のセレナーデを演奏している記録が残っています〔1897.12.24の楽友会演奏会〕。その前後に撮られた3人の写った写真は紹介されることが多いので、目にする機会の多いものです。櫻井は、卒業後ケガのため演奏家としての道は断念し、音楽教師としての道を歩むことになりますが、なんとこの方の奥さんとなるのが富山の人なのです。土井フサ〔房〕さん。先日(27日)紹介した、土井宇三郎の姪です。そして、晩年(1945年)、櫻井信彰は娘の琉璃子と氷見に疎開、琉璃子が国泰寺末寺の宝光寺(氷見市加納)の住持と結婚したことで、氷見に住むことになり氷見で亡くなります。
(以上は、劔月峰『櫻散りぬ――ある小学唱歌教師一族の近代史』(文芸社/2007.4)に多く拠っています。)

 もう一人、注目すべきなのがやはりこれも一学年上の《高塚鏗爾》です。高塚鏗爾(たかつか・こうじ)は、廉太郎が1901(明治34)年4月6日に、横浜港からヨーロッパに旅立った際、日本最後の寄港地・長崎で滝を迎えています(9日)。長崎は当時の赴任先だったかと思われますが、高塚は夫婦で滝を迎え送っています。高塚は、長崎県師範学校などを経て、1908(明治41)年に富山県師範学校に赴任するのです。そして、高塚の音楽的感化によって、一人の若者が音楽に志すことになります。高階哲夫です。
 高塚鏗爾は、富山で多くの音楽教師を育てた富山の音楽界の恩人です。まずそのことをしっかりと覚えておく必要があります。その上で、考えておきたいのは、彼が小学校の音楽教師を育てていく中で、滝廉太郎の思い出を語り、なにより滝の音楽を富山に多く紹介したであろうことです。なお、高塚鏗爾は、『楽理研究』という本を、1917(大正6)年に中田書店から出しています。この中田書店の創業に同級の櫻井信彰の妻フサの伯父が関わっていたことなど知っていたのかどうかは、わかりません。またフサは初産を実家で迎えるために、夫・信彰の赴任地長崎から富山の土井家に里帰りしていますが〔1916(大正5)年〕、富山にいた高塚鏗爾がそうしたことを知りえる状況にあったのかどうかは不明です。(櫻井信彰=高塚鏗爾の間に、親しく近況の報告など手紙のやりとりがされていれば、その可能性はありますが。)
 残念なことに、私には、高塚が富山にいつまでいたのか、また、いつ亡くなったのかなど今のところまったく、わかっていません。が、今書いたように師範学校教師として多くの若者に接しているはずですから、教えを受けた生徒の証言がどこかに残ってないものなのか、そんなことも掘り出すことができればいいのに・・・と思います。

 隣県・石川県の石川県師範学校に赴任した滝の後輩・新清次郎(あたらし・せいじろう)に関わる富山県人もいることと思われるが、新清次郎については別にふれることにします。

by kaguragawa | 2016-06-29 20:25 | Trackback | Comments(2)

Commented by 北村俊英 at 2017-02-18 23:39 x
櫻井信彰の次女琉璃子の長男です。祖父に関する貴記述内容にいくつか間違いがありますので拙著「櫻散りぬ」でご確認ください。
Commented by kaguragawa at 2017-02-19 00:47
たいへん失礼しました。琉璃子様は信彰様の娘さんでした。言い訳ではないのですが、この記事を書いたとき、お孫さんである北村さんに連絡することはできないかといろいろ調べてみたので、お孫さんというのは北村さんのこととごっちゃになってしまったのです。あらためてお詫びします。今、ご本が手元にないので、確認の上、間違いは訂正させていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
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