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「アイカメ」・・・藤井能三とデ・レイケ   

 なんとデ・レイケ(Johannis de Rijke)は、1891(明24)年、暴れ川常願寺川の治水工事に富山県に来た時、伏木港もおとずれ、藤井能三と会っていたのだ!。能三の『伏木築港論』(明治24年)に、このように登場する。

 今回富山県の水害検視として来県せし内務省雇工師和蘭人デレーケ氏の伏木港巡回を機として、右「アイカメ」の事を語り以て氏の意見を問ひしに、氏は海底の深浅及び大穴の個所等を試験したる後ち、未だ充分な調査を遂げざれども親部川は築港上最も必要なるものなりとて特に之を賞讃し、而して右「アイカメ」と称する深淵あるが為に多少の修繕を加ふれば如何なる大艦巨舶と雖も容易に川中に入るるを心得べく、其の費用は凡そ五拾万円ほど要するの見積りなれども愈々築港せんとするには、尚ほ充分に測量調査をせざれば能はずと言へり、されば伏木港民の口碑に伝はる「アイカメ」の深淵は氏の鑑定を得て倍々信を措くに足るのみならず、之が為めに如何なる蒸気船も容易に川中に入るを得べしと言うに至りては余は之を天与の地形と謂うも不可なかるべしと信ず。

追記:
 藤井能三とデ・レーケが「あいがめ」を話題に話し合ったとき、そこに同席していたのは誰なのだろう。そもそもデ・レイケを伏木に誘い、この出会いをセッティングしたのは誰なのか・・・。

追記:2016.05.02
 常願寺川砂防事業に詳しいMさんからご教示によると、デ・レイケに随行していた高田雪太郎の日記に、デ・レイケの藤井能三訪問のことが書かれているそうです。埋もれている資料に、大事なことが書かれているようです。詳細はあらためて報告します。
「歴史は忘れられた端役として存するのではない。人が思い出してくれさえすれば声を発するであろう」とは、伏木生まれの堀田善衞のことば。


by kaguragawa | 2016-05-01 16:10 | Trackback | Comments(3)

Commented by 平名 at 2016-05-02 09:03 x
 常願寺川は富山県が一時石川県に併合される位 治水対策に金の掛かる河川ですからね、、 黒部川よりも
 太田地区の田圃の一部で田を掘り起こし川砂を大量に取って居たが今は判らなく成っています。
Commented at 2016-05-02 12:05 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by kaguragawa at 2016-05-02 23:23
平名さま、コメント有り難うございます。
田の下に川砂というのは、そこがかつて、川床~河川敷だったということなのでしょうか。常願寺川の流路はどんどん北に移っていったようですからこうした場所はいくつもあるのでしょうね。

S様、朋有り遠方より来るの気持ちでうれしく拝読しました。「船頭平閘門」というのは、デ・レイケの関わった木曽三川の工事にちなむものですね。いままで畏れ多くて敬遠していたデ・レイケが少しずつ身近な人になってきています。藤井能三のことなども勉強し始めたばかりです。また、ぜひいろんなこと、教えてください。
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