[水上峰太郎][野口詮太郎]――がっかりとびっくり
2015年 12月 29日
ある名簿の同じグループに、「野口詮太郎」と「水上峰太郎」の名前を見つけました。〔第四高等中学校/明治二十三年七月卒業生 29人〕――驚きました。竹久夢二の縁者として追いかけている「水上峰太郎」と堀田善衞の縁者として追いかけている「野口詮太郎」。この二人は、同期生として金沢の地で医学を学んでいたのです。それにしても同期生とは、思いもよらないことでした。
そもそもは、水上峰太郎が金沢の「四高」の卒業生であることを諸資料で知って、四校の卒業生名簿を近代デジタルライブラリで探し出すところから始めたのですが、まずは水上峰太郎が、第四「高等学校」ではなく、第四「高等中学校」の卒業生だったことに、納得かつ落胆。明治3年(資料によっては2年)生れの峰太郎であってみれば、第四高等学校の前身の高等中学校の時代であることに思い至らなかったこと、我ながらまず第一のがっかりだったのです。まあそのがっかりは、峰太郎の名前が四高関係者の中に間違いなく存在していたことで安堵に変わりましたが。
やれやれと思っているところに、「水上峰太郎」の名の近くに思ってもいなかった「野口詮太郎」の名があって、今度はびっくりです。しかしこれも落胆のタネでもありましたが。
野口詮太郎が四高の卒業生であることも既知のことではあったのですが、峰太郎と同じ頃に在籍していたことに思い至らなかったこと、頭の中で知識がリンクされていないことが、第二の落胆だったのです。人事興信録の「君は富山県士族野口忠五郎の長男にして 明治三年十一月を以て生れ 大正十年家督を相続す 明治二十三年第四高等中学校医学部を卒業し 同二十四年陸軍三等軍医に任ぜられ 大正六年陸軍軍医監に累進す」という記述を、書き写していながらすっかり忘れていたのです。しかもこの記述は、卒業学校名も「第四高等中学校」と正確に記しているのですから、私のぼけぶりはかなりのもので、さらに落胆が深まったというわけです。
もう一つ思いもよらぬ名前を見つけて、あわてました。これはまったく想定外である以上にどう考えたらよいのか、悩まされた記載です。「川崎五郎兵衛(川崎順二) 富山」・・・。
蚕都であった山間の街の八尾〔当時は富山県婦負郡八尾町〕に伝わっていた「おわら」を今日見られるようなおわらに変身させた立役者(初代越中八尾おわら保存会会長)“川崎順二”も金沢の四高医学部の卒業生であることは、記憶にあったのですが〔http://kaguragawa2.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-45c4.html〕、彼は生年〔1898(明31)年〕からして大正10年くらいの卒業生のはず・・・と思っていたからです。そして、今確認したところによえると「大正十一年五月」の卒業生名簿に「川崎順二」の名前があります。これが、八尾の開業医・川崎順二に間違いはないでしょう。・・・とすれば、〔明治二十三年七月卒業生〕中の「川崎順二」は別人?、同名の父親???。八尾の医家「川崎家」のことを、調べてみる必要があるようです。
――以上、見つけた古資料にびっくり、我が老朽化頭脳にがっかりの顛末。
※水上峰太郎は、竹久夢二の最初の妻・他万喜(岸他万喜)の姉・岸薫が嫁いだ医家。富山市総曲輪で開業。
※野口詮太郎は、堀田善衞の父・勝文(野口勝文)の兄。陸軍軍医。
by kaguragawa | 2015-12-29 14:25 | Trackback | Comments(8)
さしつかえなければ連絡先を教えていただければとてもうれしいのですが・・・。宜しくお願い致します。