築地で、霜川「夕汐」を読む
2015年 11月 07日
あらためてゆっくり報告する機会もなさそうなので、ここには雑駁な印象だけを書いておきます。寄留地の跡地である現在の明石町は、不謹慎な言い方でお叱りを受けるのを覚悟して言うと、なんとそのかなりの部分をSt.Luke“聖路加”に占められているのです。河岸の天を摩する聖路加ガーデンの聖路加タワー(48階)と聖路加レジデンス(38階)の兄弟棟?など、真下からのぞき上げた心地といったら(32階には連絡ブリッジがある!)、――一昨年、対岸の佃島からは遠望してはいたのですが――どぎもをぬかれました。
私の築地への関心は、津田仙の「築地ホテル」に始まり、「築地バンド」(これは太田愛人さんの命名だったでしょうか)を経て、ちょうどその頃偶然読み返した霜川の作品「夕汐」が「築地居留地」を舞台にしていたことにあらためて気づき、ちょっと衝撃を受けて、今に至っています。
三島霜川の「夕汐」(明治33年)は、アメリカ人商人と日本人女性との間に生れた混血児少年と佃島の少女との淡い想いが冒頭に描かれていますが、膚も髪も眼も色の異なる「異種」の子であり、父親がアメリカに帰国したままの孤児であり、さらに吃音障害を持っている少年の三重の苦衷を理解するすべを、彼が思いを寄せる少女も母親さえも、持つことは不可能であったろうと思われるそうした少年を、霜川は、居留地を背景の作品に巧みに取りこんでいます。
その少年と少女〔麗三郎とお崎〕がはたらく《開明社活版所》は、平野富二の「築地活版製造所」をモデルにしていると思われ――コンワビルの「活字発祥の地」の碑も見てきました――、このネーミングにも若き霜川の目が、「開明」の裏表を射ぬく異様なトゲをもったものであるところも、私には新たな発見なのでした。
霜川の「夕汐」と築地――築地と佃島、そしてその渡し、居留地と居留地を取り囲む日本人居住区の格差、鉄砲洲川と見富橋、当時すでにドブと化していた築地川(ただし霜川はそこに潮の満ち干きを書きこんでいる)など――のことは、折を見て作品の註として書きたいと、思いますが・・・いずれ。
〔追記〕この日の逍遥?のスタートは、加藤時次郎の「平民病院跡地」であったこと、締めくくりは、小林多喜二が息を引き取った築地警察署裏の「前田病院の地」(現在も前田病院は引き継がれています)であったことを、付記しておきます。
by kaguragawa | 2015-11-07 18:38 | Trackback | Comments(4)
築地/佃/月島と11月1日に仕事先の組合行事企画で案内しました。
場内市場の入口にある「第五福竜丸」関連の碑、重文に指定されたばかりの築地本願寺、警察署横の「築地小劇場跡地の碑」、芥川龍之介生誕の地碑、ミッションスクール発祥の地、佃大橋を渡り、元祖佃煮店、吉本隆明の育ったエリア…最後は清澄通りの「魚仁」で〆。さすがにいにしえの佃の渡し船は経験ありませんが、ポンポン蒸気の渡し船には何度か乗船。勝鬨橋の開閉も都電乗車時に経験