132年前の「富山分県」と藻谷さん   

 米澤紋三郎が「分県之建白」書をもって上京したのは、明治15年(1882)の秋。この年の5月に結成された越中改進党の主要メンバーだった紋三郎は、建白の代表委員として上京したのですが、このとき安政四年(1857)生まれの紋三郎は、なんと26歳(満年齢)、翌年の5月9日に、富山県域は石川県から分離独立、現在の「富山県」が誕生し、紋三郎は「分県の父」とも呼ばれるようになります。しかし、注目したいのは、この分離独立運動を担った、「越中改進党」のメンバーには、紋三郎だけではなく、何人も20代の若者がいたことです。米澤紋三郎とともに上京した入江直友もそうですが、文久元年(1861)生まれの藻谷伊太郎もそのうちの一人で、しかも22歳でした。

 奇しくも富山県の分県を記念して制定された「県民ふるさとの日」の今年の記念式典に講演されたのが、この「越中改進党」結成のメンバーで漢詩人でもあった藻谷伊太郎の直系の曽孫(ひ孫)に当たられる藻谷浩介さん。藻谷浩介さんご自身が藻谷家と富山県のつながりを講演の冒頭でお話になられましたが、「分県」と藻谷家との関係にはふれられなかったので、余分のことながら、ここで私が蛇足の弁を弄した次第。

 あっ、書き忘れるところでした。講演のテーマは「新幹線時代を迎えた富山県の今後」。内容は明日の新聞?。

〔追記〕
 ブログ「陸に彩りを添える楓と柊」さんが、式典と藻谷さんの講演の大事な部分を紹介しておられました。ご覧ください。
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by kaguragawa | 2015-05-09 20:13 | Trackback | Comments(0)

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