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〈ある写真〉――おお、夢二に抱かれた添田知道少年がいる   

T様へ

 管野すが特集の7年前の「彷書月刊」(2008.2)に載っている「近藤千浪・白仁成昭さんに聞く」中の田村治芳さんの〈ある写真〉を見ての発言;「唖蝉坊がいる。おお、夢二に抱かれた添田知道少年がいる。」について、写真の確認、有り難うございました。
 やはり、1906(明治39)年10月28日の社会主義婦人会(運動会?)の写真でしたね。
 確認の労をとっていただき、感謝に堪えません。有り難うございました。

 この写真にこだわったのは次のような理由からです。

1)
 ここには添田知道を抱く竹久夢二が写っていて、あきらかに岸他万喜である女性(少し首を傾げている)が、この写真説明では「竹久彦乃」の名で紹介されています。
 そしてこの『唖然坊流生記』に「戸山ケ原の運動会(明治三十九年秋)」と題して掲載されている写真が、『光』(明治39年11月5日号〔第1巻第26号〕)の7pに「社会主義婦人会」として報告されている10月28日の運動会のものであることは、ほぼ間違いのないことでしょう。

※以上のことは、すでに渡辺政太郎研究家の飯野正仁さんが「〈髑髏〉の時代――竹久夢二における反抗の原基」(『夢二 アヴァンギャルドとしての叙情』展図録/2001.4/町田市立国際版画美術館)で、指摘されています。

2)
 ところが夢二研究では、「夢二とたまきの出会いは、〔明治39年11月5日〕である」というのが、通説です。長田幹雄さんの労作「夢二年譜」中の次の記述を、ほとんどの夢二研究者が無批判に引き継いでいるようなのです。
 長田=竹久年譜の明治39年の項には、「十一月一日 岸たまき、早稲田鶴巻町にエハガキ店つるやを開店する。/十一月五日 開店五日目、夢二つるやに行き、たまきと初めて会う。」とあります。が、あきらかに10月28日の写真が示す事実と異なっているのです。
 上記の飯野さんの表現を借りれば「11月5日以前にすでに夢二とたまきは社会主義者の集会に一緒に出掛ける程の知り合いであったという事になる」わけです。

※ある本では――今、手元にその本がないので、その本の名の紹介も引用もしませんが――、夢二とたまきが参加したこの運動会のことを紹介しつつも、「11月5日」の方を優先させて運動会の方の日付を変えてあるのです。

3)
 この「11月5日出会い説」の根拠は、岸他万喜が後に書いた追想エッセイ「夢二の想出」(『書窓』/昭和16年7輯)のようです。そこには、「(開店)五日目に長髪の異様の青年が来まして」とあります。しかし、たまきは「つるや」の開店日を「11月1日」と書いているわけではありません。それどころか、たまきは「十月一日に開店早々わんさわんさの人気にて」と書いているのです。
 長田幹雄さんは、たまきの書いた「10月1日」を、何故か「11月1日」にしてしまったのです。これは、長田さんらしくないケアレスミスとしか言いようがありません。

※「たまきの記憶は正確なものなのか?」という問題は残りますが、長田さんの《「夢二・たまきの出会い=明治39年11月5日説》は、その根拠が、他万喜のエッセイによるものとすれば、それはほぼ、崩れていると言ってよいと思います。 なお、他万喜のエッセイ以外に鶴巻町の「つるや」の開店日を書いた資料を私は、今まで目にしたことがありません。

4)
 逆に、「11月5日以前にすでに夢二とたまきは社会主義者の集会に一緒に出掛ける程の知り合いであった」ことの傍証となる、夢二の相馬御風宛ての書簡(はがき)〔明治39年10月20日付け〕があることを、最近知りました。
 このはがきには、夢二の手で二人の男女が後姿で描かれています。夢二とたまきの交際を間近にいて――居住の地理的位置関係においても、交際の深さにおいても、――知る位置にあった御風に宛てて、夢二がこれみよがしに?男女を描いたとすれば、それは“自分とたまきは今日も一緒です”のメッセージと考えるのが一番無理がありません。なお、はがきに描かれた男がかぶる帽子は、「戸山ケ原の運動会」の夢二がかぶる帽子と同じ種類のもののように見えるのですが、これも予断でしょうか。

※この頃の夢二の交遊者としてたまきが上記のエッセイに、「相馬御風」の名前を挙げていることが、期せずして夢二、御風、たまきが当時よく顔を合わせていたことを語ってくれているようである。

by kaguragawa | 2015-02-17 23:40 | Trackback | Comments(4)

Commented by tosukina at 2015-02-18 06:53
竹内さまから
 貴ブログの案内を受けました。

一点、指摘させてください。
全集に依拠するとすれば貴ブログの「菅野」は「管野」
また本人が好んで使用した姓名は管野須賀子となります。

大逆事件処刑の時程は記憶でいえば神崎清さんの『革命伝説』に記載の文から私がウェブ上のあちらこちらのブログにアップロードしたものと当事者ながら推察。

最近のブログは下記、当方もタイピングミスなどあるかもしれません。ご指摘頂ければ幸いです。
夢二の晩年の住まい跡地前をたまたま週に数回は通過しています。

              http://taigyaku.blog.jp/

                    亀田 博
Commented by kaguragawa at 2015-02-19 00:14
亀田さま、コメント有り難うございます。「管野」が「菅野」になっていました。さっそく直させていただきました。長田さんのケアレスミスを言いながら、私の方は、正真正銘のcareの欠如でした。
4年前の記事「大逆事件の死刑執行の日」にも目を通していただいて、出典についても教えていただいたことも、うれしく、感謝です。今後ともよろしくお願いします。
Commented by 平名 at 2015-02-26 11:19 x
貴君ならではの追究感心します。 旧暦だったり、お互いに意識した日だったり、握手した日だったり合体の日だったり 愉しく追求して下さい。 
Commented by kaguragawa at 2015-02-28 19:22
コメント、愉しく拝見。この関係者の間では旧暦を詮索する必要はなさそうではあります。
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