「堀田善衞を読む会〔4〕」余録   

 今回(第4回:09.27)のテキストは、『橋上幻像』の「第二部 それが鳥類だとすれば」――。

 以下、この「第二部」の次の一節に関した余録です。

 “男は、その映画について、つけ加えて言った。あの頃、自分は若かった。ほんの二十一か二かの大学生であった。そのせいがあったかもしれなかったが、この映画には心から感動し、とりわけて未亡人の息子が舞踏会にデビュするに際して、そのワルツの音楽が、未亡人の心を透かして見せ、彼女を過去へ過去へと誘い込むかのように、普通のワルツのリズムとはリズムを逆にして演奏されていた。普通ならば、ワルツは、強、弱、弱として演奏される筈のものが、弱、弱、強というふうに、時間の進行を逆にしていたことが、いま印象にのこっている、つまりは、ワルツの音楽は時間をむかしへむかしへと送りかえしていたのだ、と。”

 本文には、この「男」が“ほんの二十一か二かの大学生であった”時に感動したという映画のタイトルは明記されていませんが、それは読書会で説明されたように、『舞踏会の手帖(Un Carnet de Bal)』というフランス映画(1937、監督:Julien Duvivier)であることはそのストーリーからいっても間違いのないところでしょう。ここで私が注目したいのは、“普通ならば、ワルツは、強、弱、弱として演奏される筈のものが、弱、弱、強というふうに、時間の進行を逆にしていた”という映画中のワルツのことです。といっても、この不思議なワルツそのものに興味を惹かれたのではなく、そんな曲がほんまにあるんかいな?、堀田さんもようやるな、との思いでこの一節を読んだのです。つまり、ワルツの音楽は“時間をむかしへむかしへと送りかえしていたのだ”というフレーズを導くための「作り話」といって悪ければ「潤色」として書きこまれたものと思い、巧みな音楽技法を話題に持ちだすという堀田善衛の巧みな話術に感心してしまったのでした。

 「読む会」を終えて帰ってからもこの「ワルツ」のことが気になり、町内会の防災訓練などの合間に少し調べてみました。その映画中の曲(ワルツ)は、モーリス・ジョベール Maurice Jaubert (1900--1940)がこの映画のためにつくった「灰色のワルツ(Valse Grise)」でした。
 以下、堀田が「弱、弱、強というふうに、時間の進行を逆にしていた」と指摘した不思議な?ワルツに関するメモです。以外にも?!、堀田のワルツの記述は「潤色」どころか、堀田の鋭い「耳」の証左だったのです。(興味をもたれた方は、下記の部分をヒントに、みずからお調べください。)

 たとえば「灰色のワルツ+録音」や「灰色のワルツ+逆」などで検索すると、いろいろ書かれているものが見つかります。映画に使われたものは、逆再生と多重録録による斬新なもの――楽譜を逆から演奏したものを録音し、そのレコードを逆回転させて再生し、その録音の上にさらに弦(ストリングス)の音を重ねて録音して得られたもの――のように書かれています(なお、当時は磁気テープが録音メディアとして一般化される前だった)。そうした試みは、映画音楽史上というより、広い意味での音楽制作(創作)の歴史の上でも、ちょっと、画期になるような一つの事件だったようです。
 堀田がこうした裏事情をある程度知っていてあのように書いたのか、まったく事情を知らずに自分の感じた曲の特異性からあそこまで書いたのか、興味深いところです。いずれにせよ、この部分の記述は、堀田の音楽への関心をみずから踏み込んで開示した見過ごせない部分だといえるでしょう。

 こういったこともふくめて、「堀田善衛と音楽」についての、めくばりのきいた、しかも深く掘りさげられた論考が書かれたらいいなぁと、思うことしきり・・・です。
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by kaguragawa | 2014-10-01 21:56 | Trackback | Comments(0)

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