明治の「赤壁兄弟」と現代の「藻谷兄弟」
2014年 06月 25日
Shakesさんのブログ《SHAKES' Tables: 富山の英学》の記事「赤壁兄弟」(2014.6.23)を拝見して、とっさに思ったのは「藻谷三兄弟」のことでした。今をときめく?藻谷三兄弟――藻谷俊介・浩介・亮介のご兄弟――のひとり藻谷浩介さんがweb上でも読めるいくつかの講演でもおっしゃっているように、山口県生まれの藻谷さんのご先祖は富山の小杉の人なのです。では、Shakesさんが、赤壁兄弟として紹介された小杉の赤壁酒店の二男「二郎」と三男「伊太郎」のうち伊太郎は、そこに書かれているように「藻谷家」の養子になった・・・とすれば、この明治時代の「赤壁兄弟」と現代の「藻谷兄弟」はどうつながるのか?。
富山の大空襲でいのちを失った歌人・藻谷銀河が藻谷三兄弟のお祖父さんにあたる方なのですが、小杉町の文化蓄積が生んだ「開智社」「相益社談」を支えていた漢詩人でもあった藻谷海東(=藻谷伊太郎)と、この富山市の歌人・藻谷銀河(=藻谷六郎)の関係が――おそらく伊太郎が銀河の父であろうと思いながら、調べる労を惜しんでいたあまり――私には、はっきりわからなかったのです。
なんのことはない、『富山県文学事典』(桂書房)を開いて疑問は氷解しました。「藻谷海東」が立項されていて(大西紀夫稿)、そこには「その子の銀河は歌人であった。」と簡明に書いてあるではありませんか。
海内果の私記にも登場する明治の赤壁兄弟(赤壁次郎・藻谷伊太郎)が、現代にエコノミスト兄弟となって蘇えってこられたことを知られれば、冥界の海内果さんもびっくりされることでしょうね。
では。
〔追記〕
これも、はっきりしないままのことで、どなたか明確に答えてくだされば有り難いのですが、いろんな辞典類には富山人の「藻谷」は《もだに》の読みになっているのですが、「藻谷兄弟」の「藻谷」は《もたに》と「谷」を濁らないようです。このあたりのいきさつをどう考えればよいものか・・・。
by kaguragawa | 2014-06-25 23:55 | Trackback | Comments(3)
一歩、一歩、先人の皆さんの業績を杖に進むしかありませんね。ご厚誼のうえ、重ねてのご教示宜しくお願い致します。
富山日報の追悼文(明治34年12月23-24日)には「もだに」とルビがうってありますね…。
ちなみに,同文中にはちゃんと「兄徳平仲兄二郎,君は第三子なり云々」ともありました。
明らかな調査不足でガッカリです。