《岸田吟香、北陸路から電報!〔明治11年〕》 〔追記〕
2014年 06月 24日
まずは、電報の「発信地」についてです。
「魚津金沢より岸田の御着輦を電報せしなり。」
この個所を読んで、首を傾げた方もおられるのではなかろうか。ようやく電信線が引かれたばかりの明治11年なら、電報を打つことができたのは「魚津」ではなくて「富山」ではなかろうか。どうして魚津なのか?・・・
しかしこれは間違いではないのです。富山県で電信局(電信分局)ができたのは、――それは、この明治11年のことですが――、富山でもなく、高岡でもなく、《魚津町》だったのです。ですから、発信地は魚津〔現:魚津市大町〕だったのです。
(この項、続稿はいずれ。)
次に、電報の「着信地」についてです。
「午後四時頃に中央電信局より日報社に報じ来る。」
はたして、この「中央電信局」はどこにあったのでしょうか。
築地の東京運上所(現:明石町)にあった工部省「中央電信局」は、やはりこの年に場所が変わっています。変わった先は、京橋区木挽町十丁目十一番地(現:中央区銀座6丁目15番1号)、一方、日報社(東京日日新聞)は、京橋区尾張町一丁目一番地(現在:銀座5丁目7番10番。銀座5丁目交差点西北角)。
〔追記〕――「中央電信局」と「日報社(東京日日新聞)」
現在位置でいえば、「中央電信局」は、昭和通り/銀座東5丁目交差点東南角の《J-POWER(電源開発)》、「日報社」は、銀座通り/銀座5丁目交差点西北角の《ニューメルサ》。この2点を結ぶのは、銀座を東西にぬける一本道〔現:みゆき通り〕。当時は、間に三十間堀川(木挽橋)をはさんでいましたが、その間:300メートルほどでしょうか。
by kaguragawa | 2014-06-24 22:37 | Trackback | Comments(0)