岸田吟香、北陸路から電報!〔明治11年〕
2014年 06月 21日
ちょうどこの「明治天皇の北陸巡幸」に関しておもしろいものを読んだばかりなので、紹介しておきます。当時、東京在住で「東京日日新聞」に勤めていた富山県人〔海内果〕が故郷の家人にあてた手紙です。
(6月29日付け)
“北陸御巡幸の供奉に日報社より岸田吟香氏派出の事に定まり申し候。よって同氏は日夜御巡路の名所旧跡などの書類相調べおり候。併し御巡幸は八月下旬と申すことなり。然れば越中へおいでの時分は稲刈り最中にて誠に忙しき時節になり申さずやと案じおり候。”
この時点ではまだ北陸巡幸出発の具体的日時は決まっていないようです〔実際は、8.30に〕。海内が記者として勤める日報社の東京日日新聞からは、岸田吟香が特派員?として随行することになり、巡幸先のにわか勉強を始めたようです。岸田吟香は前にもご紹介しましたが、画家・岸田劉生のおやじさんで銀座で薬屋もしているユニークな人物です。それにしても、こんな形で岸田吟香が富山に足を踏み入れていようとは、想像だにしていませんでした。
この年、金沢士族・島田一良らによって大久保利通が殺害されており〔5.14〕、北陸路の警備は厳重な体制で臨まざるをえなかったようです。海内は、風説とことわりながらも、有事の際、途中での越後からの帰京に備えて軍艦を新潟港に待機させるといったことも、7月13日付けの手紙で書いています。
もう一つおもしろい手紙の一部を紹介しておきます。
(10月3日付け)
“ときにもっとも驚き喜悦つかまつり候義は、新聞紙中に記載これあり、魚津金沢より岸田の御着輦を電報せしなり。実に迅速なるものにて昨二日の金沢よりの電報の如きは、午後二時半過ぎ発午後四時頃に中央電信局より日報社に報じ来る”
岸田吟香が金沢から2時半に送った「電報」が4時には新聞社に届いたことを驚き喜んでいるのです。この当時、10日もかけて富山から東京に出ていった内海にとって瞬時に届く、電報の威力には目をみはったようです。
そういえば、7月13日付けの手紙の一節に、“越中越後の電線御急成に相成”という「電線」は、電報用の電信線だったでしょうか。
(なお、この年〔1878〕までに、電信線の国内整備がほぼ完了したという。)
by kaguragawa | 2014-06-21 17:42 | Trackback | Comments(0)