人気ブログランキング | 話題のタグを見る

霜川文学の原点『ひとつ岩』を読む(3)   

 次は、この「ひとつ岩」のことを「薄幸なる我が処女作」というタイトルで書いたエッセイから、『世界之日本』発表当時のことを書いた一節。〔『秀才文壇』明治42(1909)年8月号に掲載〕


 〔明治〕三十年か三十一年の『世界の日本』に出た『一つ岩』と云ふのが私の処女作であるが、それ以前、『新小説』第二巻の、たしか六月か七月の号に載った『埋れ井戸』といふものがある。だが書いたのは『一つ岩』がずっと以前であるから、矢張り真の意味に於て之れが処女作だらう。
 この『一つ岩』といふのは『埋れ井戸』が発表された前年の十月頃作ったもので、其の時分は別にかうと云ふ主張もなければ、またかうしたものを書かうと云ふ深い意味があった訳でもない。若い時分失恋した老人の孤独な生涯を書いたものだ。然しこんな老人が居たわけでは決してなく、ただ自分が十四五の時、磐城の海岸四つ倉と云ふ所に暫く居た事がある。その四つ倉に 大きな巌が一つあって……一つ巌とは言はないが之が後に題となった……その巌の上の櫓に炬火を灯すのを役目にしてゐる老人がゐる。まあいはば昔の燈台守だ。漁夫の古手ともいった 風な独身者の老爺であるが、これが当時少年の私の頭に深く印象されてゐたので、それに感興を持って書いたものだ。作者自身が少年時代の頭で観察しただけのものだから、無論今から見れば欠点だらけのものだが、それでも私自身は一生懸命書いたものだ。
 その時これを某先輩に頼んで、「新小説」か「新著月刊」に出してもらはうとしたが拒絶された。紹介されたのは翌年の三四月だった。さういふ訳で『埋れ井戸』がさきに出た。それから自分の宅へ暫く原稿を寝さして置いたが、紅葉先生の紹介で『世界の日本』へ売ることになった。
 『世界の日本』といったら、その頃の『国民の友』に対抗する位の雑誌だったが、丁度その頃は漸々縮小主義になり、文芸なんかに余り重点を置かなかった結果として、僅々七十枚位のものを五枚、三枚と断れ断れに出した。で世間から何の注意も払はれずに終了ったが、それを稀に 見る人などは幾等か見所のある作だといっていた。また自分でも自信はあった。

by kaguragawa | 2014-05-06 21:46 | Trackback | Comments(0)

名前
URL
削除用パスワード

<< 霜川文学の原点『ひとつ岩』を読... 霜川文学の原点『ひとつ岩』を読... >>