大井冷光の杉苗、仏眼親王御領   

 きのう、空き時間に何気なくページを繰っていた『肯搆泉達録』(江戸時代の史書)の富山町(現:富山市)の地誌部分に、“おやっ”と思うところがあったので、メモしておきます。

 稲野若水と云ふ者、越中にあり、本草に通ず。著述書八百巻。加州公より御扶持賜はる。後ち京都に住す。越中に門人覚中といふ者、また本草に委し。住せし所、後、覚中町といふ。(一部略)
 杉内といふは、佐々の臣杉内林太夫といふ者住せしゆゑ、名となりたるとぞ。その頃、円隆寺の後ろに牢あり。新町橋より南横に道ありしゆゑ、今に新町橋を牢橋といへり。また大田口は町端にて、里人など町に入るに、今蓮照寺前の川にて洗足せしゆゑ、足洗川といふ。またこの川の辺にて、むかし孤狸しばしば人を魅しければ、仏眼親王御領たる時に、石に仏像を刻み、橋とし、供養ありければ、その事やみてなかりしとなり。


 こうした歴史的地誌の世界は、その不確かさもふくめて大好きなのですが、そのことはおいておいて、この部分にはなかなか有益な脚注がついていて、全部書き写す余裕がなく残念なのですが、いくつかの注が、目を惹いたのでそのあたりのことを記しておきます。
 「杉内」・・・「現在の南田町、上本町のあたり。明治末期、大井冷光が居住して「立山案内」等を執筆したのは、この杉内(杉苗)であった。」
 「足洗川」・・・「日枝神社の東裏の川。この川の橋のところが、富山町と太田の村との境であった。」

 以前、民俗学と博物学の境目のことがらに興味をもっていた私には、ここに「稲野若水」と記されている“稲生若水(いのう・じゃくすい)”のことも気になるのですが、さらに気になるのは「大井冷光」と「仏眼親王」のことです。
 大井冷光の詳細な年譜が手元にないのが残念ですが、照合すれば、この注によって冷光の居住地と杉苗の両方が、判明しそうです。「足洗川」は、このブログの2013.04.20と04.27に書いた「三仏川」のことなのですが、この辺りが、“仏眼親王御領”だという伝承はちょっと驚きでした(裏付ける史料があるのでしょうか?)。「仏眼法親王」というのは、いずれあらためて紹介したいと思っていますが、越中にしばらく滞在した後醍醐天皇の皇子・宗良親王のことなのです。


・追記〔冷光の「杉苗僑居」〕
 大井冷光の『立山案内』の「自序」には、「明治四十一年新緑 滴る五月十五日 於富山杉苗僑居」と書かれている。この「杉苗僑居」の地が、上記の「杉内(杉苗)」であろう。
 ブログ「琴月と冷光の時代」のRさんからご教示では、この頃の大井冷光の住所を確定できるのが、明治42年の『越中お伽噺』奥付に記されている《富山市南田町83番地》だそうである。ここを、冷光の「杉苗僑居」と考えてよいであろう。
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by kaguragawa | 2013-12-28 21:26 | Trackback | Comments(0)

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