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『私製・再録 誤植読本』(2)――「古今独歩の誤植多き書物」   

 (以下、5年前にかいたものの再録)

 《古今独歩の誤植多き書物として珍本として後世に残ること受け合いなれば御秘蔵くだされたく候》
 ――こんな手紙を漱石からもらった人がいる。久内清孝氏。久内氏が手紙とともに受け取った「古今独歩の誤植多き書物」とは、漱石の東大講師時代の講義録『文学論』(1907年[明40])であるという。
 余りの誤植の多さに怒った漱石が、その本をみずから焚書!?の刑にしようとしたたとも言われる有名な話らしいのですが、大文豪とはお近づきではない私は、きょう「誤植」にまつわるエピソードとして知ったばかりです。

 私は、別の興味からこの「久内」姓に目がとまりました。この「久内」姓、前にも出逢っていて印象に残っていたからなのです。
 ・先日(6/15)紹介した前田普羅の震災記。この冒頭に登場するのが「久内君」なのです。再録。
 《大正十二年九月一日、「ジャパン・タイムス」横浜支社の柱時計は静かに長く十二時を打った。事務所のあるじ久内君は自分に構わず、遠雷の如き響を立ててタイプライターを打っていた。
「帰ろうか」と自分が言い終わった時、突然微震を先駆としない強震が椅子を突き上げた。》

 当時、普羅が勤務していたのは「報知新聞」。ここに登場する「ジャパン・タイムス」は友人・久内君の勤務先のようなのです。<十二時>に普羅が「帰ろうか」と言った意味もそれで明らかになります。訪ねた友人が忙しそうだったので、おいとましようとしていた矢先の大地震だったのです。いずれにせよここに偶然登場した「久内君」のこと、少し気になりながらも忘れかけていたところに、漱石から不思議な手紙をもらった久内清孝氏の名前に出逢ったのです。  (2008.06.28)


 手元にある『漱石全集』(第23巻/書簡・中/岩波書店/1996.9)に、上記の書簡を含む5通の久内清孝宛て書簡が収められています(書簡・上/下は未確認)。《古今独歩の誤植多き書物》に関する明治40年5月の書簡を書き写しておきます。

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a.先日は結構なものを難有頂戴致しました。拙著文学論一部御礼に其内差上ます。校正者の疎漏の為め非常に誤植多き故訂正表を添えて上げます 〔5月12日付〕

b. 先日は御出のよし失礼致し候。御約束の文学論差上候。小包にて御落手被下度候。是は正誤表に候。古今独歩の誤植多き書物として珍本として後世に残る事受合なれば御秘蔵被下度候
      五月三十一日          夏目金之助<
   久内清孝様


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 a〔書簡番号833〕、b〔書簡番号843〕、ともに本郷区駒込西片町10番地ろノ7号より横浜市根岸町3622番地久内清孝宛て

〔追記〕
 漱石書簡の久内清孝と、前田普羅のエッセイ中の久内清孝(横浜植物会の創立メンバーの一人)が同一人物かどうかについては、不明ながら久内氏の住所が横浜市であることから、積極に考えたいと思います。漱石との接点は、英語にあったように思いますが、この点についてはあらためて。
 なお『漱石全集』(第23巻/書簡・中)の巻末に「人名に関する注および索引」があるのですが、久内清孝については、「不詳」の二文字のみで生没年の記載もない。
 一方、ジャパンタイムズ社横浜支店長もつとめ後年植物学者として後進を多く育てた久内清孝氏は;
  *1884(M17).03.10--1981(S56).04.12---
(2008.06.30)

〔追記:2013.06.29〕
 漱石書簡の名宛人の久内清孝と、前田普羅のエッセイ中の久内清孝は、同一人物であることが、この記事を書いた直後に久内清孝氏の遺族の方からのいただいた、“夏目漱石と書簡のやりとりをした人物と、横浜に住む、植物学者の久内清孝は同一人物です。”とのお知らせで判明しました。後年植物学者として名を成した久内清孝と作家・木下杢太郎については、4年前に書いた「久内清孝と木下杢太郎――『百花譜』をめぐって」という論考?を、これもいずれこのブログに再録したいと考えています。

by kaguragawa | 2013-06-29 19:14 | Trackback | Comments(0)

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