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賢治と小繋(旧稿)   

 以前、旧ブログに書いた記事〔2009年3月16日〕。今日、偶然見つけました。写しておきます。

 『イーハトーブ温泉学』に触発されて岩手の山野に思いを巡らしていて、ふっとこれも岩手の山村・小繋のことが思い起こされて、急いで岩波新書『小繋事件』をさがしだしました。
 小繋村の入会山(いりあいやま)であった小繋山の所有名義が村の旦那(地頭)・立花喜藤太から村外の柵山梅八ら三人の共有に変わったのが、1897(明30)年。これが入会紛争の起点であったわけではないが、村民の生活の糧の山であった小繋の山が、第三者の経済的利害にさらされることになったその起点の年が、賢治の生年の翌年であること。この小繋山の一部を陸軍省の軍馬補充部に売り付け利を稼ごうとした村外者たちの利害と村民の生活が鋭角的に対立し、第一次小繋訴訟が始まったのが、1917(大6)。この訴訟が提訴され争われた場が当時、高等農林学校の学生であった賢治のいた盛岡の地方裁判所だったことも、何の因果なのだろう。もちろん賢治は当時、入会紛争などというものにまったく関心がなかったであろうが、賢治が土質調査に歩いた山々はじつはほとんどが農民の入会山であったことは銘記されていいことだと私には思えるのです。
 そして農民の生活を保障するはずの「入会権」が認定されず、なんと15年かかったこの第一次訴訟の第一審が盛岡地裁で原告敗訴に終わったのが、1932(昭7)年。晩年、農民の生と関わり苦闘した賢治の死の前年なのです。

 賢治の生まるごとが、小繋村の農民の入会紛争の日々と重なっていたという事実を、――ここでは十分に書けませんが、小繋村の田中正造とも言うべき小堀喜代七のこともあわせて――自分なりに咀嚼してみたいと思っています

by kaguragawa | 2013-06-10 22:11 | Trackback | Comments(0)

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