堀田善衞の「金沢」
2013年 05月 13日
日本のはげしい変わり方のさ中で、さほど変わり方のめだたぬ町をあるくことは、あるくその当人に、種々入り組んだ感想を与える。ましてその当人が、むかし住んでいて、物心つくについて深いものを与えられたとなれば、なつかしさはひとしおであり、まるで自分自身を見るように思う。
堀田が金沢について「物心つくについて深いものを与えられた」、「まるで自分自身を見るように思う。」と、書いているにもかかわらず、「堀田文学にとって金沢は何であったのか」というテーマで論じられたことは無いのではなかろうか。
が、私にはずっと、堀田善衞にとっての「金沢」が気になっているのです。もちろん「堀田文学にとって・・・」などという大問題を論じようという気持ちはさらさらないので、堀田善衞が金沢にいた旧制の金沢二中時代の足跡を少しでも掘り起こすことができないかという気持ちなのです。
ある縁があって、今あらためて、この私の「気懸り」を、少しときほぐしてみよう、少し探ってみようと思い始めました。あまり読まれていない二つのエッセイ「金沢にて」(1959)「金沢風物誌」(1968)を紹介することから初めて、堀田善衞の金沢時代の諸相などと折を見て、書いていきたいと思っています。
by kaguragawa | 2013-05-13 21:02 | Trackback | Comments(0)