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津田仙と三人の越中人   

 昨年の8月、《津田仙とふたりの越中人のこと》というタイトルで、次のように書いていました。

 「津田仙と親しく交わった越中国射水郡生まれの、しかも嘉永年間と言う同時期に生を受けたふたりの越中人がいることをここに記しておきます。〔嘉永二年〕射水郡棚田村に生まれた稲垣示と、〔嘉永三年〕射水郡長慶寺村に生まれた橘甚兵衛(甚平/仁)です。」

 今日、ある偶然で知って驚いたのですが、――“親しく交わった”と言えるかどうかは、別として、――津田仙と接触を持った“越中国射水郡生まれの、しかも嘉永年間と言う同時期に生を受けた”越中人がもう一人いました。なんと、それは嘉永三年生まれの《海内果》です。32歳で夭折したこの越中人は、富山県が生んだ数少ない優れた思想家ではないのか・・・と私が考えている人物です。
 津田仙と海内果――。充分なことはわかっていませんが、二人の出会いについて資料に残っている限りのことは、正確に報告したいので、稿をあらためますが、その時期は明治11年です。とすれば、海内果は、訪問した津田のもとで橘仁と会っている可能性もあるのです。

 そう言えば、橘仁と、というより〔橘仁・いつ夫妻〕と、〔新島襄・八重夫妻〕との北海道での出会いも、今までふれられたことのない話題かと思います。このことについても、きちんと報告したいので稿をあらためます。
 おそらく橘仁が津田仙のもとから北海道に持って渡り札幌の地で根づかせたリンゴは、札幌から京都に帰った新島襄・八重夫妻のもとに何人もの札幌人から送られているのです。橘仁の丹精のリンゴは、珍しくしかも賞味すべきものだったことをこのエピソードは語っているようです。新島夫妻にリンゴを贈ったうちの一人(二人)が八重の会津時代の友人日向ユキ(NHKのドラマで剛力彩芽が演じている女性です)が北海道で結婚した内藤兼備とユキの――かつて敵対した薩摩人と会津人の――夫妻なのです。

〔追記:2014.06.20〕
 海内果と津田仙との出会いは、海内の初上京の折の明治10年2月でした。誤植であればこっそり直しておくのですが、私の資料の読みまちがいですので、あえてここで訂正しておきます。

by kaguragawa | 2013-03-30 23:33 | Trackback | Comments(2)

Commented by Shakes at 2015-11-09 12:29 x
とっくにご存じとは思いますが,「新川県誌稿 政治部 勧農」に,明治8年初旬に新川県は津田仙訳の「農業三事」を購入して管内の希望者に与え,また同年4月には4名の研修生を津田の元に派遣したとありますね。この4名の中には残念ながら射水郡出身者は含まれていないようで,学農社の設立も翌明治9年ですが,海内が津田仙の名前を知ったのは結構早い時期だったかと…。
Commented by kaguragawa at 2015-11-29 19:58
Shakes様、パソコン不調で(今も改善していませんが)、返信が遅くなり失礼しました。事柄としては、津田仙研究の側からの情報としてとっくに?知っていましたが、「新川県誌稿」に記されているとは思いませんでした。「新川県誌稿」さっそく確認しました。何度か目を通したことのある資料ですが、うわすべりしていました。ところで、私が承知していた津田仙側の情報の出所はどこなのか、それを確認しようと思いながら、まだ果していません・・・。
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