田岡嶺雲と徳田秋聲の「弥生町」下宿(1)   

 経営史の瀬岡誠教授が、「十四会準拠集団」と呼んでおられる明治期のもと加賀藩士が中核をなす企業家集団に、漠とした興味というか関心を持っているのですが、そんなことの周辺に、浮かんできたのが徳田秋聲が自伝的文章で追憶的に記している「士族階級とみえる同郷の人々が遣っていた」「弥生が丘」の「高い石の段々のうえにあ」ったという下宿のことです。

 明治維新以後、林賢徳らのもと加賀藩士が加越能三州出身者の育英のための組織(のちの加越能育英社)を作り、「久徴館」「明倫学館」というような寄宿舎を東京につくったという記憶があったのですが、こうした動きと、秋聲が記している「士族階級とみえる同郷の人々が遣っていた」「下宿」が重なるのです。

 私の知りたいのは、端的には、いっとき田岡嶺雲が下宿しており――その下宿の嶺雲を秋聲は訪ねている――、秋聲ものちにいっとき住んだその下宿が、《どこにあったどのようなものなのか》、なのです。が、それをまず秋聲の書いたもの糸口に探し求めたいと思うのです。
 事前に言っておくと、時代は明治28年(1995)の6月です。

 秋聲の記述には、「弥生が岡」の「高い石の段々のうえ」とあってと手がかりになる言葉はあるのですが、これだけで場所が特定できるわけではありません。まして、「弥生が丘」という地名はそのままでは、明治期の東京にも存在しないのです。しかし、ここであきらめてはいけません。秋聲は、この時期の記憶を、二つの文章にしているのです。一つは上に引いた「自伝的小説といわれる『光を追うて』。もう一つが「大学界隈」というエッセイです。
 関わりのある個所を、それぞれのテキストから写しておきます。

 それはさておき、博文館の編集室の片隅から送った等の投書は、間もなく「青年文」に載せられ、編輯の誰かに指摘されたが、数日して或る時主幹の田岡嶺雲から手紙が来て、あの種類の評論なら、時々載せても可いということだったので、等は感激し、嶺雲を弥生が岡下宿に訪ねて見た。
 高い石の段々のうえにある其の下宿は、後に等も入ったことがあって、士族階級とみえる同郷の人々が遣っていたが、嶺雲は其の奥の方の部屋に、金縁の眼鏡の奥から、大きい目を鋭く光らせ、土佐っぽらしい率直さで彼を迎えたが、貧弱で陰気くさい無口の等を見て失望したに違いなかった。彼は弟子の天才鏡花を讃め、師匠の才人紅葉を謗ったが、歯切れの好い弁舌と、漢字仕立てながらも尖鋭な頭脳の閃きと、神経の動きの敏捷さとに、鈍い等は一層気の利かない人間として座らされていた。

        『光を追うて』から

 二度目に上京した時――それはちょうど日露戦争のたけなわな頃でしたが、戦争も鎮まって大分たってから、自分はどういう伝手だったか弥生町の横山という下宿にいた事があったが、その頃その下宿から大学に通っていた人にどうかすると会などで呼びかけられて冷やりとするくらい、自分の生活は貧しいものであったが、今思い出すとその下宿に田岡嶺雲もいたことがあったし、他にも文壇的に知名の人がいたように思う。
        「大学界隈」から

 ――この二つの引用は状況が違うように見えますが、このあと、嶺雲と秋聲の二人が一緒に雑誌「青年文」の山県悌三郎を上駒込に訪問するくだりが二つの文章に同様に続きますから、同じ場面であると考えてよいものです。
 もう一度、秋聲のテキストを整理してみたいと思います。

                           (続く)
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by kaguragawa | 2013-02-16 18:56 | Trackback | Comments(0)

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