三木露風書簡の秋聲と霜川(6)   

 『黴』には、幼児の入院と退院にあたっての肉親の切ないまでの神仏への願いと感謝が、点された「燈明」でくっきりと描かれている。

 《茶の室(ま)の神棚や仏壇には、母親のつけた燈明が赤々と照って、そこにいろいろの人が集まっていた。「どうか戻されるようなことがなければいいがね。」》
といった状況で病院に向かった正一は、再び、
《家では神棚に燈明が上げられたりした。神棚に飾ってある種々のお礼のなかには、髪結のお冬が、わざと成田まで行って受けて来てくれたものなどもあった。》という状況で、長い病院生活を経て幸いにも生還したのである。

 ところで、徳田一穂氏(秋聲長男)の幼児期の入院は、具体的には、明治39年の「いつからいつまで」のことだったのであろうか。
 『全集』の「年譜」は、入院を〔8月下旬〕、入院期間を〔1ヶ月余〕としている。とすれば、退院は、9月下旬から10月上旬になるであろう。長い期間である。では、作品『黴』に笹村の長男正一の入退院の時期や期間は、どのように記されたのであろうか。
 いくつかの個所を抜き出しておく。その期間が、9月を中心にした1ヶ月をわずかに超えたものであったことが、いくつかの記述から浮かびあがる。病室の片隅での笹村と妻二人の「三十幾日」にわたる食事の情景や、近くのニコライ会堂の鐘の音でそれは読者に知らされている。笹村はニコライ堂の鐘の音を少なくとも4度聞いたと書かれているのだ。

 病室の片隅に、小さい薄縁(うすべり)を敷いてある火鉢の傍で、ここの賄所(まかないじょ)から来る膳や、毎日毎日家から運んでくる重詰めや、時々は近所の肴屋からお銀が見繕(みつくろ)って来たものなどで、二人が小さい患者の目に触れないようにして飯を食う日が、三十幾日と続いた。   〔69〕

 つい近所にあるニコライの会堂も、女中の遊び場所の一つになっていた。笹村は日曜の朝ごとに鳴るそこの鐘の音を、もう四度も聞いた。お銀も正一を負いだして、一度そこへ見に行った。   〔71〕

 入院当時には満員であった病室が、退院するころにはぽつぽつ空きができて来た。まだ九月の半ばだというのに強い雨が一度降ってからは、急に陽気が涼しくなって、夜分などは白いベッドの肌触りが冷たいほどであった。 〔70〕

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by kaguragawa | 2013-02-02 07:16 | Trackback | Comments(0)

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