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三木露風書簡の秋聲と霜川(5)   

 前にも引いた『徳田秋聲全集』別巻の「徳田秋聲年譜」(松本徹)にはこう書かれている。“八月下旬、一穂が疫痢のため駿河台東京小児科病院に入院。一時は危篤状態に。一か月余入院。”

  「3歳から6歳ぐらいの小児にみられる、細菌性赤痢の一病型。発熱・嘔吐・ひきつけ・意識混濁などを呈し、死亡率が高かった」と説明される「疫痢」という小児特有の症状は、秋聲が『黴』に描く症状そのまま――病名は明記されていないものの――である。今でこそ、おそれられる病でなくなっているものの私の記憶にもまだ「疫痢」の語の響きは、鮮明である。明治時代には――資料によって数値は異なるが――生存率は、50%前後だったようだ。
 病院の管理下での治療が功を奏し無事退院できたものの、自宅であたふたと介抱していれば、あるいは病院への搬入が遅れていれば、あきらかに奪われた命だったことはまちがいないであろう。「助からないかもしれない・・・」この思いは、子を気遣う肉親には次から次へとおぞましい連想を肉親を呼び起こしていったことであろう。

 それは病の知らせを聞いた金沢にいる笹村の老母にも衝撃であったにちがいない。

 机のうえに二、三通来ている手紙のなかには、甥が報じてやったまだ見ぬ孫の病気を気遣って、長々と看護の心得など書いてよこした老母の手紙などがあった。手紙の奥には老母の信心する日吉さまとかの御洗米が、一ト袋捲き込まれてあった。老母は夜の白々あけにそこへ毎日毎日孫の平癒を祈りに行った。
 それを読んでいる笹村の目には、弱い子を持った母親の苦労の多かった自分の幼いおりのことなどが、長く展(ひろ)がって浮んだ。同じ道を歩む子供の生涯も思いやられた。そうしていつかは行き違いに死に訣れて行かなければならぬ、親とか子とか孫とかの肉縁の愛着の強い力を考えずにはいられなかった。


 ところで、「年譜」が記す「駿河台東京小児科病院」とはどこのことなのだろう。病院名まで書かれているということは徳田家に何かの記録が残っていたのであろうか。私には、知るよしもないが、ここ2,3日調べた限りでは、この「駿河台東京小児科病院」とは、資料によっては「東京小児科医院」「東京小児科院」とも書かれている瀬川昌耆(1856~1920)の瀬川小児科病院(現在の瀬川小児神経学クリニック)に間違いないであろう。入院の日に、院長が千葉に出向いていることも瀬川が千葉医学専門学校の教鞭をとっていたことと符合するし、その立地もニコライ聖堂に近く電車通りに近い当時の西紅梅町で、『黴』記載のディテールに一致する。

 「病勢はもっともっと上る。その峠をうまく越せれば、後は大して心配はなかろう。」
 入院の翌日に、初めて診察に来た老院長の態度は尊いほど物馴れたものであった。


 小児科の神様といわれ、秋声に“老院長の態度は尊いほど物馴れたものであった”と書かせた瀬川昌耆(せがわ・まさとし)は、この当時、ちょうど50歳であった。

by kaguragawa | 2013-01-31 20:01 | Trackback | Comments(0)

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