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三木露風書簡の秋聲と霜川(4)   

 一方、秋聲の方はというと、明治36年夏、はま夫人との間に長男一穂氏が生まれ、小石川の霜川と同居していた借家から本郷の森川町一番地の家――仮に「陸橋の家」と呼んでおきます――に移っています(明治37年夏)。
 秋聲はこの地を気に入っていましたが、傾斜地で水の便がわるかったこともあり、新しい地主から明け渡しを求められたのを機に、ほんのいっとき富坂の方に移り、次に森川町一番地の家に移ってきます。(今度も森川町一番地ですが、さきほどの「陸橋の家」とは別の町の南側の場所です。なぜ同じ一番地かというと、かつてこの地に住んでいた岡崎本多藩の家臣団が住んでいた区域全体がそのまま、「森川町一番地」となったからなのです。すなわち「町全体が、大きな“一番地”」だったのです。)

 この秋聲の最後の転居は、明治39年の晩春から初夏にかけてのことですが、この家に移ってまもなく、3歳になったばかりの長男一穂さん――『黴』では“正一”――が、生死をかけた大病を患うことになるのです。

  『黴』では、「次に引き移って行った家では、その夏子供が大患(おおわずら)いをした。」と、まず書き出されています。

 その前から悪くなっていた正一の胃腸は、ビールと一緒に客の前に出ていた葡萄のために烈しく害(そこな)われた。蒸し暑いその一晩が明けるのも待ちきれずに、母親と一つ蚊帳(かや)に寝ていた子供は外へ這い出して、めそめそした声で母親を呼んでいた。(中略)
 一時に四十二度まで熱の上った子供は、火のような体を小掻捲(こがいま)きにくるまれながら、集まって来た人々の膝のうえで一日昏睡状態に陥ちていた。そして断え間なく黒い青い便が、便器で取られた。そのたびにヒイヒイ言って泣くのが、笹村の耳に響いた。
「〔医者が〕今度という今度は、少し失敗(しくじ)りましたねって、そう言うんですよ。もし助けようと思うなら、入院させるよりほかないんですって。家ではどうしても手当てが行き届かないそうですから。」


 ・・・三木露風の手紙に書かれていた「徳田秋聲君の愛児が大病で入院」という事態に立ち至るのです。

by kaguragawa | 2013-01-30 19:51 | Trackback | Comments(0)

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