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中田辰三郎さんのこと(3)   

 引き続き、水守亀之助氏の「三島霜川を語る」から中田辰三郎の関連を。(脇道の幸田露伴談もおもしろいので略さずにつけておきました。)

 その頃、霜川が同誌に何を書いていたものか私はおぼえていない。しかし、後年文壇をはなれて演劇畑の方へ外れていったそもそもの原因は、この頃の結びつきにあったのだろう。しかも、仲田氏の自宅がやはり動坂町なのだから、霜川が同所へかえって来て後はいっそう親密さを増していったのだろう。私も霜川を通して訪問記事などで稼がせてもらったり仲田氏の家庭へもちょいちょい行くようになった。
 丸の内に「帝国劇場」ができたのもその頃で、「名和長年」という上演脚本を幸田露伴先生が書かれた。私は、その話を聞きに寺島村の幸田家を訪ね、露伴先生の謦咳に初めて接したわけだが、この文壇の耆宿を目の当たりに見る私は内心びくびくものだった。およそ小説家とか文士といった私の概念とは反対で高名な禅僧かなどのごとき気魄と迫力とに気圧されてたじたじだったからである。
 前にいったように仲田氏の風格にも非凡なものが感じられた。後年私が文壇に出てからだったが、仲田氏は自ら原稿の依頼に矢来町の拙宅に駕を枉(ま)げられたことがある。リュウとした和服姿で仙台平の袴をつけられていた。そして、長者の風を持ちながらも態度いんぎんなので、私は面食らったことがある。礼儀というものはいつどのような時代でも大切なものだとつくづく思う。


〔追記:註〕
 1)動坂町の中田氏の自宅とは、後に演劇画報社の住所地ともなっている――というよりは発祥の地と言った方がいいのかと思いますが――本郷区駒込動坂町110番地であろうか。
 ここは、霜川が一時住んだ地番と同じである。その辺りのこと、私にもある推測があるのですが、確証が無いので控えます。昨年、徳田秋聲記念館で見た藤澤清造の名刺(徳田家に残されていたもの)に記されていた住所が、「駒込動坂町九五」であったことも思いだされます。
 2)幸田露伴の「名和長年」は、今からちょうど100年前の1913(大2)年に書かれたもののようです。初演は七代目松本幸四郎。

by kaguragawa | 2013-01-20 11:12 | Trackback | Comments(0)

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