中田辰三郎さんのこと(2)   

 ひきつづき、中田辰三郎のことを書いておきたいと思います。今までも、三島霜川関連で引用した水守亀之助「三島霜川を語る」からです。水守亀之助は、「中田」を「仲田」と記していますので、引用はそのまま「仲田」とします。


 まだ二本榎にいた時、霜川のお供をして銀座に出た序でに「演芸画報社」を訪問し、社主の仲田辰三郎氏にあったことがある。ちょうど来あわせていた川尻清譚氏にも出会った。氏は現に健在で演劇界の長老であることはあらためていうまでもあるまい。
 社といっても創業後まだ間もない頃だったからでもあろうが、佐柄木町というのがあって、そこのある通信社か何かの入口にある狭い応接室を利用していたとおぼえる。仲田氏は秋山定輔時代の「二六新聞」の編集長か主筆をした経歴の持ち主だが、見るからに重厚で豪毅といった風格で、容貌も堂々たる感じであった。話しぶりも重々しかった。霜川は多分新聞社にいたことがあって知ったものだろう。
 仲田氏は東北出身の某代議士の友人と共同で仕事を始めたのだそうだ。私は、その代議士にも同社で出会ったことっがる。名前は度忘れしたが、先頃平山蘆江の「東京おぼえ帳」なるものを読んでいると役者や芸者の話の中にのその人が出て来た。今思い出しても苦み走った粋らしいところのある紳士だった。誌ッ橋の花柳界などで鳴らした政客なのだろうことがうなづかれる。「演芸画報」などを思いついたのも、この風流代議士なのではあるまいか。


 (続く)

〔追記:註〕
 1)文中の霜川と亀之助が訪ねた演芸画報社の所在地の「佐柄木町」は、私の持っている大正年間の「演芸画報」の奥付に記されている「京橋区南佐柄木町七番地」のことだろうか。
  なお、「二本榎にいた頃」とは、亀之助が霜川のもとに居候?していた明治40年の芝区二本榎西町の時代のことである。この年1月、「演芸画報」は創刊された。
 2)中田辰三郎が共同で「演芸画報」を始めた「東北出身の某代議士」とは、きのう紹介した「菊池武徳」のことであろう。菊池武徳は、慶應三年、陸奥国弘前の生まれ。
 これもはずかしい話ですが、かつて、この「某代議士」が誰なのか探ろうとして『東京おぼえ帳』まで購入したのですが、途中で断念し、これも積どくです(正しくは行方不明)。

〔追記2〕
 「演芸画報社」が、「通信社か何かの入口にある狭い応接室を利用」ということで、もしやと思って調べたのですが、《南佐柄木町》にあった「通信社」といえば、現在の「電通」当時の「日本電報通信社」ではないのでしょうか。
 日本電報通信社の住所地は、南佐柄木町二番地のようですが、この辺りは、当時でもけっこうゴミゴミした?ところだったようですから水守さんの記憶が混乱している可能性がありますし、演芸画報社がその社地(といっても当時は事務所一部屋程度だったようです)をその近辺で変えた可能性もあります。折を見て調べてみたいと思います。そして《南佐柄木町》で、もう一つ思い出すのは、堺利彦の「売文社」・・・。
 明治後期から大正にかけてこの狭い界隈に行き交ういろんな人の顔が見られたようです。
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by kaguragawa | 2013-01-19 20:00 | Trackback | Comments(0)

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