中田辰三郎さんのこと(1)   

 三島霜川がその後半生でその編集にもたずさわり、「芝居見たまま」「近世名優伝」や「大正役者芸風記」など多くの記事を書いた『演芸画報』。この『演芸画報』の創刊に関わり、のちに演芸画報社の社主にもなった中田辰三郎のこと知りたいと思っていましたが、辞典類にもその名は見あたらず、歌舞伎関係の本も少しはページを繰っても中田辰三郎さんの名前は見つからない・・・・。

 はずかしい話ですが、読むべき本をていねいに読んでいなかったことが判明しました。積んどくになっている戸板康二さんの『演芸画報・人物誌』(青蛙房/1970.1)をふと手に取ったらこんな記述があったのです。ここを手掛かりに、新たなことがわかってくるのではないかと、わくわくしています。

  「画報」の計画は、福島県人で慶應義塾を出て、尾崎行雄とも同期であった中田が思い立ったといわれる。
 中田は初め時事新報の政治記者となり、地方紙のいくつを経て二六新報に入った。
 二六新報時代は少壮論客として鳴らしたといわれるが、明治三十九年、浪人時代に、二六興信所長をしていた安藤亮が二号で休刊になった演芸雑誌の写真原板を売り込みに来たので、急に「画報」発刊を思い立ったという。
 青森県人で同門同期の菊池武徳(のちの代議士)が三千円融通したのが、最初の資金で、菊池が初代社長である。「画報」初期のムードに政治家の書がのったり、名士の精神訓話があったりするのは、そうした発起者の感覚が反映しているわけだ。
 中田辰三郎は昭和十七年四月五日、胆のう炎で歿した。七十七歳。同年五月号の「画報」に安部豊がその経歴をのせている。


〔追記〕
 今、あらためてweb検索したところによれば、『出版文化人名辞典』(日本図書センター/1988)、大久保久雄『出版・書籍商人物情報大観―昭和初期』(金沢文圃閣/2008)に「中田辰三郎」が立項されており、『会津会雑誌』第六十号に「中田辰三郎君」(荘田三平)の記事があるようである。
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by kaguragawa | 2013-01-17 22:45 | Trackback | Comments(0)

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