札幌の橘兄弟のことども   

 先日、紹介した北村智恵子の兄に、儀一と礼次がいる。儀一は5歳上、礼次は3歳上である。橘家のこの兄妹3人――兄弟は智恵子の下に忠男・信・孝・悌の4人の弟がいる――は同じ年に縁づいたらしく1910〔明43〕年に、橘礼次は栃内礼次となり、橘智恵子は北村智恵子となった。

 私にわかっていることはこの礼次さんが大学――東北大学農科大学(もと札幌農学校)――の卒業論文としてまとめた研究成果『旧加賀藩田地割制度』が、明治44年に東北大学農科大学の「経済学農政学研究叢書」の第1冊として刊行されていることである。e0178600_20325219.jpg
 そして、この本は国会図書館の近代デジタルライブラリでも見ることができるのだが、検索してみて驚いた。
 国会図書館の所蔵本の表紙には、「贈 有島先生 著者」という書き込みがあり、栃内礼次が有島武郎に贈呈したものだったのである。(詳細は割愛するが、武島は当時、東北大学農科大学予科教授であった。)

 それにしても札幌生まれの栃内礼次(橘礼次)が、加賀藩の江戸期の農地制度をその研究課題に選んだことは、いろんなことを想像させてくれる。
 端的にいえば、礼次の父・橘仁が加賀藩領の十村という大庄屋格の家の次男に生まれ、津田仙の学農社農学校に学んだ特異な経歴をもってもっていることに拠るのであろう。が、そのことは橘家では家長・仁が自らの出身地である越中国の農業の有り方についてしばしば語っていたことを思い起させる。

 さらに想うのは、智恵子も父の話にしばしば登場する父のふるさと話に耳を傾け、父の実家に滞在して卒業研究をおこなった兄・礼次の報告を聞くことで、越中国に思いを馳せ、“父の生国に一度は行ってみたい”との思いをもっていたのではないかということだ。
 啄木の『一握の砂』に詠われた北海道の橘智恵子と我が富山の距離は、智恵子の父が単に富山県の出身だというよりも近いのではなかろうか・・・、そんなことを二上山を眼前に見る高岡市の橘仁の生地で思うのである。

〔追記〕
 内村鑑三らの創立にかかる札幌独立教会に顔を出していた有島武郎は、橘兄弟の父・仁とも教会で顔を合わせていたはずである。また礼次の義父・栃内元吉とも有島は面識があったはずである。
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by kaguragawa | 2012-10-06 20:34 | Trackback | Comments(3)

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