人気ブログランキング | 話題のタグを見る

久しぶりに「『黴』私注」――霜川の湯島時代   

 徳田秋聲の『黴』に描かれた秋聲と三島霜川、それに後に秋聲夫人となった小沢はまさんの小石川区表町の同居時代の《前史》に、霜川の湯島界隈の生活があるらしいことが漠然とわかってきました。

 霜川の湯島時代と言っても、そんなものどんな年譜にも(こっそり私の作っている私製霜川年譜にも)記されていません。が、霜川はいっとき(明治33年頃?)、本郷区の湯島三組町に住んでいたのです。このことがある資料からいよいよ確実になってきたのです。

 長野から東京に出てきた小沢一家が、秋聲と縁をもつ前、本郷の湯島界隈に生活の根拠を持っていたことは、秋聲の『黴』とその前駆作『足迹』にも描かれていて秋聲研究者には周知のことですが、霜川の方が先にその湯島時代に小沢一家とかすかな接触があったように思われるのです。霜川ないしは霜川の周辺の人々と小沢家の人々とのやや複雑な出会いが湯島界隈であったのです。
 こうした推測は、上に挙げた秋聲自身の作品からあぶりだすことができるのですが、霜川の湯島時代がたんねんに掘り起こされれば、霜川の側から確証がえられることになるのです。その第一歩が少し見えたのですが、この発掘は実際問題としては難しいものでしょうが。

 いずれにせよ、この問題は丁寧に扱わなければならないのですが、とりあえず『黴』のなかから検討したい部分だけを引用しておきます。

 友達〔=深山≒霜川〕の知合いの家から、直きに婆さんが一人世話をしに来てくれた。友達の伯母さんが、その女をつれて来たとき、笹村は四畳半でぽかんとしていた。外はもう夏の気勢で、手拭を肩にぶらさげて近所の湯屋から帰って来る、顔の赤いいなせな頭などが突っかけ下駄で通って行くのが窓の格子にかけた青簾越しに見えた。
 婆さんを紹介されると、笹村〔≒秋聲〕は、「どうぞよろしく。」と丁寧に会釈をした。
 武骨らしい婆さんは、余り東京なれた風もなかったが、直ぐに荒れていた台所へ出て、そこらをきちんと片付けた。そして友達の伯母さんと一緒に、糠味噌などを拵えてくれた。


 そのうちにこの手伝いの婆さんの娘が顔を出すようになります。後に秋聲夫人になるはま、作中の「お銀」です。
 このお銀の登場時に、霜川の伯母とその婆さんの関係とは別らしいこみいった関係も語られます。

 この女が、深山の若い叔父の細君の友達であったことが直きに解ってきた。この女が一緒になるはずであった田舎のある肥料問屋の息子であった書生を、その叔父の細君であった年増の女が、横あいからうばっていったのだということも、解ってた.
「あの女のことなら、僕も聞いて知っている。」と、深山はこの女のことを余り好くもいわなかった。
「深山さんのことなら、私もお鈴さんから聞いて知っていますよ。」女も笹村からその話が出たとき、思い当ったように言い出した。
「へえ、深山さんというのはあの方ですか。あの方の内輪のことならお鈴さんから、もうたびたび聞かされましたよ。」
 母親も敷居際のところに坐って、その頃のことを少しずつ話し始めた。


〔追記〕
 数年前のweb日記の時代に、こっそりと「『黴』私注」というのを書いていたのですが、それを復活したいと思っています。



 

by kaguragawa | 2012-09-16 16:34 | Trackback | Comments(0)

名前
URL
削除用パスワード

<< ちょっとメモ:《社》の読み ちょっとメモ:路面電車の雑記 >>