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秋声の「フジハウス」――(1)   

 以前このブログに「フジハウス」のことを書いた記憶があったのですが、検索しても見つかりません。となれば、いろんな説明をしなければならなくなってしまうのですが、「本郷界隈にかつてたくさんあった学生用(半学生用?)下宿の一つ」、なんて書くと現在の大家さんに怒られそうですが、そういった辺りから話をはじめた方がいいかとも思います。
 といっても、私が話をまとめたりするより、フジハウスに関する貴重な証言を、資料として、そのまま紹介することから始めたいと思います。こうしたフジハウスに関するいくつかのエピソードから、秋声のかざらない素顔に加えて、秋声像を見なおす手がかりも、見えてくるように思われるのです。

 第一弾は、大家さんのたくみな紹介もされている好都合な、しかし資料としても貴重な証言です。


 “昭和十一年、私はなんの意味もなく、本郷帝大(東大)前の森川町の「不二ハウス」に移り住んだのであった。ここも電話は管理人室の隣りにあるだけであった。私の部屋は2階6畳、ガス台はあったが、オール外食、独身者にはこれが体にさわるのだ。
 本郷は帝大、第一高等学校、日本医大などのある、その昔、加賀百万石、前田家の江戸屋敷のあった場所で、特に赤門は有名であった。本郷三丁目から入った菊坂には、大正時代から文人達の集う「菊富士ホテル」があった。そして西洋料理品と洋酒で名高い「青木堂」の2階は、若い学者、インテリ青年のたまり場であった。またレストラン「鉢の木」、加賀料理の「百万石」は帝大関係者の会食の場であった。愉快なのは赤門前の「落第横丁」であった。玉突場、麻雀荘、喫茶店、各種呑み屋などがひしめいていた。「ここで遊んでいると、落第するぞ!」という訳なのであろう。(中略)
 また私が不二ハウスに住んでしばらくした頃、アパートのおばさんが、「あの端の部屋はご存じでしょうが、有名な哲学者、岡邦雄先生がお使いになっているのですよ」と教えてくれた。そういえば、廊下で、二、三度お見かけしたが、三十歳位の執筆助手と思われる助手を連れていた。浴衣を着て、腰にタオルを下げているのを見て、私はとっさに「上野の西郷さんに似ているなあ」と思ったのだ。
 さてそのころ、私は隣りの、私より年長の独身青年と親しくなった。彼は早稲田出で、銀座にある洋画の映画雑誌社に勤めていたが、意外なことを聞かされ、私は仰天してしまった。それはこのアパートの経営者は、明治の末から大正、昭和三代にわたって活躍した「自然主義」の作家、徳田秋声氏であるということであった。私はとっさに名作群、「黴」「あらくれ」「縮図」を憶い出した。先生の敷地は帝大正門より、やや本郷三丁目寄りの右側にあって二本の道路に面していた。つまり屋敷の表側が一本の道路に面し、アパートの表側が、もう一本の道路に面していた。そして屋敷の裏側とアパートの裏側が塀なしの庭でつながっていた。
 さて再び、電話のことに触れさせて頂くが、この私の転居先不二ハウスの管理人夫婦は、徳田先生の御身内の方らしく、出版社から電話があると、夫婦のどちらかが、管理人室の窓を開け、「先生ーっ、ナニナニ社から、お電話ですよお!」と叫ぶ。すると先生は下駄をつっかけて、母屋から裏庭を横切り、地続きのアパート敷地に入り、裏口で下駄を脱ぎ、廊下に上り、玄関目指して歩まれるのであった。そんなわけで、光栄にも私は、廊下で先生とよく顔を合わせたものだった。コチコチになった私は、頭を深々と下げ、最敬礼をする。すると先生は「やあ」といったような気持ちから、軽く会釈を返されるのであった。眼鏡はなく、和服で鼻の下に髭をたくわえた中背の姿……私はなんとも言えぬ、気品と和やかさを覚えたものだ。当時は先生の御長男、一穂氏も同居されていて、よく新潮社の楢崎勤氏(一穂氏と同様、当時の新進作家)から電話がかかってきたものだ。すると例によって、「カズホさーん、ナラサキさんから電話ですよおー」とやっていた。”
 

杉浦茂『自伝と回想』(筑摩書房/2002.4)

 実はこの稿を準備していたとき、同じく杉浦氏のこの回想を紹介されているブログ《ぼくの近代建築コレクション》を見つけました。杉浦氏の紹介は、そちらの方にゆずることにしたいと思います。現在のフジハウスの写真もありますのでぜひ参照ください。

by kaguragawa | 2012-05-29 22:10 | Trackback | Comments(0)

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