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霜川に登場する《船蟲村》   

 先日、啄木が評した霜川の短編「悪血」のことを書きましたが、この「悪血」の紹介をしようと思いながら日が経ってしまいました。ところで、この小説の主人公である工夫「鉄」の出身地として書かれているのが奥州・青森県の《船虫村》。実在の地名ではありませんが、この「船虫村」」が登場する霜川の小説が私が知っているもので3編あり、これらにはある共通した話題があるのです。そのことを、書くのに躊躇しているのです。
 と、ここまで書いた今、宅配便で『矢部喜好平和文集――最初の良心的兵役拒否』(教文館/1996.7)が届きました。…充分な準備はできていませんが、思い切って書くことにしましょう。

 霜川の「船虫村もの」(「荒浪」「あら磯」「悪血」)は、「兵役拒否」を一つのテーマとしているのです。なかでも「荒浪」は、日露戦争の真っ最中の1904年11月『日露戦争実記 定期増刊 戦争文学』に発表されたもの。
 「荒浪」の主人公・順之助は、“私は死ぬのを嫌うんじゃないといっているじゃないか。場合によって、私は自分で額に弾を喰わせて死ぬ勇気もある……自分の心から出たのなら、私は平気で死んでみせる。けれども他(ひと)からの命令で死ぬと言うのだから、私は嫌だ!。私の生命は、私の所有(もの)だ。ほかのものには指もさわらせたくない。私は人の権利を主張するのだ。”“私は、戦争が嫌だ。大嫌いだ……嫌な理由は、いつもお前に話しといたはずだ。なにしろ人と人とが殺し合うんだ。”と言い、一旦は入営しますが直後に脱営し、死を選びます。愛する妻の説得が無ければ、当初から入営そのものを拒否していたはずです。
 一方、矢部喜好が兵役拒否のため召集不応の罪を問われ、禁固2か月の判決を宣告されたのが、1905年3月のこと。霜川は、順之助をクリスチャンとしていますから、矢部のそれまでの思想と行動を知っていたとも考えられるのですが、それにしても、実際矢部の手元に召集令状がきたのは1905年2月のことですから、霜川の小説は矢部喜好の行動を予見したような形になっています。
 こうした重要なことが今までの霜川研究でも、戦争と文学の話題でも、日本の良心的兵役拒否の問題でも、指摘されたことがないのです。

 三島霜川は、日本で初めて良心的兵役拒否を宣明した矢部喜好のことを知っていたのでしょうか、それとも、みずからの思想の中から兵役拒否を実行する人物をつくりだしたのでしょうか。それにしてもロシアとの大きな戦争に好戦的な気分が盛り上がる中で、恩人たる義父にも逆らい、非戦の思想を表明して、兵役拒否をした青年――こうした人物を、戦争文学の牙城の雑誌に発表した三島霜川と言う人物は果たしていかなる人物だったのでしょうか。
 ――この問いは、これは多少とも霜川の文学に親しんできた私にとっては、単なる疑問ではなく途惑いに近いものです。正直なところ、問題の重さがわかってくるにつけて、思考停止に近いくらいの衝撃をかかえながら日々を過ごしています。

〔追記〕
 充分な準備もなく、大切な問題を書いてしまいました。「荒浪」のていていな分析も必要ですし、矢部喜好のことも、あらためて調べてみたいと思っています。少し、時間をいただきたいと思います。
〔追記2〕
 『日露戦争実記 定期増刊 戦争文学』(育英舎刊)は、単なる戦争賛美の雑誌ではなかったようである。この雑誌については、このブログの「『日露戦争実記』の霜川」(2010年8月8日)に黒岩比佐子さんに教えていただいたことが書いてあります。ただし、この時点では、私は「荒浪」は読んでいませんでした。黒岩さんも、『日露戦争実記』掲載の「島の大尉」「預言者」という霜川の2作品は読まれたようですが、「荒浪」は読まれなかったようです。

by kaguragawa | 2012-05-26 20:25 | Trackback | Comments(0)

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