『泊・横浜事件七〇年――端緒の地から あらためて問う』-1
2012年 04月 22日
泊・横浜事件についてほとんど知ることのない私には、この本を真正面から紹介しすることもできないのですが、じっくりと読ませていただきたいと思う。拾い読みのなかで見つけた次の一節を書き写して、あらためて昭和10年代後半の言論と権力の相克を思い起こしたいと思います。
“朝日町立ふるさと美術館はこのブロンズ像〔注:細川嘉六像〕のほかに細川夫妻を描いた油彩画も所蔵している。この油彩画は評論家・内田魯庵の長男で洋画家の内田巌が描いたものである。内田は1946(昭和21)年、日本美術会を結成し初代書記長に就任、戦後のプロレタリア美術界を牽引した画家であるが、戦争画を量産した藤田嗣治の戦争責任を追及したことでも知られている。”
内田巌の挿絵をともなって都新聞に連載されていた徳田秋聲の「縮図」が、内閣直属の情報局からの度々の干渉をうけ「作者病気のため十五日紙上をもって一先ず打ち切ることとなりました。」との社告もって中断されたのが、1941(昭16)年9月のこと(紹介した社告は、9月13日付。なお、中断は、「妥協すれば作品が腑抜けになる」との秋聲の判断による。)
そして、《泊・横浜事件》の端緒となった細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」(『改造』掲載)が、政府を批判するものとされ、細川が治安維持法違反の容疑で逮捕されたのは、まさにちょうどその1年後の1941(昭17)年9月14日のことでした。
〔追記〕
今になって思い出したのですが、『細川嘉六著作集』は、先日亡くなられた小宮山量平氏の理論社から発刊されていたのでしたね。
そして、本論とは別のことがらですが、〔年譜〕中に鈴木馬左也の名を見つけました。自分のメモとして付記しておきます。
by kaguragawa | 2012-04-22 16:59 | Trackback | Comments(2)
『細川嘉六著作集』は理論社から出ていたのですか。徳田秋声『縮図』の挿絵のことも初めて知りました。