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霜川と雨情の出逢いをさぐる(1)   

 三島霜川が晩年、児童文学雑誌『金の星』に寄稿し、金の星社から『日本精神作興・少年歴史文庫』『日本歴史実伝物語叢書』など少年少女向けの一連の歴史物を出すようになったきっかけは、野口雨情のあっせんによるというのですが、そもそも霜川と雨情がいつ知り合い、どのような関係があったものか、語ってくれる文献はほとんどないようです。
 『定本野口雨情』(未來社)を全巻ていねいに紐解くと言う当然すべき作業をまだしてないのですが、野口雨情の命日《1月27日》にちなんで(数日遅れてしまいましたが)、霜川と雨情をめぐるおもしろいエピソードを紹介しておきたいと思います。
 雨情を語る今まで紹介されていない資料としてとても貴重かと思いますが、これをどう読むかは、霜川研究にとっても雨情研究にとっても、おもしろい論点を含んでいると思います。

 語るのは水守亀之助です。(「三島霜川を語る(二)」/『高志人』18巻2号〔1953.1〕より)

  “霜川のところへは若い人がよく出入りしていた。男世帯ではあり、気のおけないせいもあるが夫子〔=霜川〕自身が青年が好きであったからでもあろう。(中略)
 霜川のところでは初めて野口雨情にも会った。この人は多分三木露風などの関係から来ていたものと思われる。白皙瀟洒たる青年詩人であった。ある夜、霜川が声をひそめていうには「君にだけいうが、誰にもしゃべっちゃいけないよ」と念を押して、「雨情は今同志と共に山県有朋の暗殺を計画しているんだ。新聞記者となって写真機をかついで面会を遂げる。そして焦点を合わせにかかる時、機械の中にかくしたピストルを発射するというんだ。何しろ奴さんは水戸っぽだからね。」といった。どの辺までが真実か定かでないが、私はその時のことをハッキリと覚えている。
 何事も起こらずにすんだことは、老公が長寿を全うしたことでわかっている。暗殺の動機目的などについては霜川は何も語らなかった。その時分の写真機と言うのは、三脚を立て黒いホロのような布きれを被ってレンズをのぞいたりする旧式のやつだから、うまい考えだったかも知れぬ。”


 今の若い人にはわかりにくいかも知れませんが、写真師に扮するこの暗殺法、なかなか実現性の高いものだと思われますが、どうでしょうか。ただし、雨情の考案なのかどうかは疑問ですし、そもそも暗殺という凄惨な社会変革?法が雨情のほんとに目指したものなのか・・・。ちなみに、この「黒いホロ」、冠布というのだそうです。

 私は、霜川と雨情の出逢いは、このエピソードの時期であり、1907(明40)年の春ではないかと考えていますが〔2/3追記:この点、訂正が必要と考えるに到りました。後日、再論〕、その論拠もふくめ、今までまったく語られてこなかった霜川と雨情の交流を少しでも跡付けることができればと思っています。判明したこと、少しずつ報告したいと思っています。

by kaguragawa | 2012-01-29 17:57 | Trackback | Comments(0)

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