《小野浩のこと―2》
2012年 01月 29日
“暑いですね。十月号は一人でおやりになるお意気込みの由、小野君から伝承。これは大変でしょう。昨日、木内君を休養のため小田原にやりました。二三泊の上、子供たちといっしょに、全部引き上げて来る筈です。小僧のやつが、昨日、日本橋で自転車から突き落とされ怪我をして帰ってきました。木内は出たアトだし、家事の方一人でよわりました。今夜から小野先生が宿直してくれます。今日午飯は、私が茄子を煮、冷や奴豆腐を仕入れ、つけものを刻み、小野大将がメシを炊きました。この暑さでも、日曜以外は毎日乗馬です。もう、いよいよ外乗りして、歩き廻れることになりました。明朝は小野大人がワガハイの乗馬を実見に来るそうです。” 〔大正11年8月11日付け〕
清水良雄は、鈴木三重吉が創刊した児童文学の雑誌『赤い鳥』の美術に携わった洋画家で、彼の表紙画は目にされた方も多いと思います。文中の「十月号」はもちろん『赤い鳥』の大正11年10月号のことです。そして、ここに「小野君」「小野先生」「小野大将」「小野大人(うし)」として四様に名前が挙がっているのは、誰あろう、《小野浩》氏です。
詳細は、ここでは略しますが、小野は『赤い鳥』の中心編集スタッフだったのです。上の三重吉の書簡は「鈴木三重吉全集」からのものですが、小野の名前は全集に収められているものだけでも清水良雄宛ての書簡を中心に多くにわたっています。読めば小野が三重吉の信頼を得て、清水良雄と三重吉のパイプ役になっていることが歴然と見えてきます。
では、小野はいつから『赤い鳥』の編集に関係するようになったのでしょうか。これについても三重吉の清水宛ての書簡が語っています。1919(大8)年のものです。
“おはがき拝受。五月号口絵は、諸方面で大好評です。子供も喜ぶそうです(中略)七月号は第三巻第一号とし、多少、排列、装飾をかえて記念号にしたいものです。その御相談に、そのうち伺います。小野浩君、よく働き、存外、タスカリます。ともかく、それで生活する人ですから、仕事も命じやすく、大将も、どんどん片づけ、ちょっともオックーがりません。来月号から、一任するつもりです。(後略)” 〔大正8年4月14日付け〕
正確な日付は分かりませんが、1919年の春から三重吉のもとで『赤い鳥』の手伝いを始めたこと、しかも仕事ぶりが高く評価されていることがわかります。
その後、“編集になれた小野君が創作をやるので円満退社”〔1921.3.1付け小宮豊隆宛て書簡〕ということがあったようですが、編集がうまくまわらず、結局、1年後に小野に復帰してもらうという経緯を経ます。最初に紹介した清水宛ての書簡は、復帰後の小野が鈴木家の家事にまで携わっている状況が書かれているわけです。(引き続き、小野は1923年8月の三重吉書簡にも登場します。)
ところが、これほどに『赤い鳥』の編集の中心にいた小野浩が、清六氏の回想によれば、兄・賢治の童話原稿を持って訪ねたという『コドモノクニ』の発行所である「東京社」にいたことになっています(前回紹介の宮沢清六「兄のトランク」参照)。
――が、どう考えても、1932年当時、小野浩が三重吉の片腕として『赤い鳥』の編集をしながら、ライバル社の東京社にも在籍したとは思えないのです。
・・・この事態をどのように考えたらよいのでしょうか。賢治研究の側から、この点に疑問が呈されたことはないようですが。
*写真は『赤い鳥』創刊号の清水良雄の表紙画
by kaguragawa | 2012-01-29 15:16 | Trackback | Comments(0)