《小野浩のこと―1》   

 前項で紹介した9年前の《ルソーとラモー》を書いたのが、2003年の10月24日だったのですが、その前日〔23日〕に《小野浩と宮沢賢治》というタイトルの文章を書いていました。
 読み直してみたら、少しつけ加えたいこともでてきたのと、ほんとに偶然なのですがこの項に関するある文献を入手したので、あらためて《小野浩のこと》というタイトルで整理してみたいと思います。(なお次稿は、1/29の予定)

 まず、2003年10月24日の稿《小野浩と宮沢賢治》と、2004年1月4日の稿《1月4日の賢治》との2つの〔旧稿〕を紹介しておきます。

●「小野浩と宮沢賢治」 (10/23/2003)

 宮沢賢治とほとんど同時代に生きた、しかも同じ年に亡くなった童話作家がいます。小野浩です。
 生没年を併記してみるとそのことがよくわかります。
 2歳違いのこの二人は、日本が戦時体制に入っていこうとする矢先、1933(昭8)年に、宮沢賢治は27歳で、小野浩は29歳で、亡くなっています。賢治がちょうど1か月さきでした。あまりにも奇妙に重なり合った人生です。

  *宮沢賢治  1896.08.27~1933.09.21
  *小野 浩  1894.06.29~1933.10.21

 賢治はご承知のように東北岩手県の生まれですが、一方、小野は九州鹿児島の生まれです。
 じゃ、“この二人に何か接点があったのか”、と問われるならば、何もなかったとお答えするしかありません。では、同時代人だったこと以外に、まったく関係がなかったのかと、問い直されると、「不思議なすれ違いがあったようです。」という答になりそうです。

 そんな話の続きは、来年の1月4日(?)に、もう少し具体的なことがわかっていれば、あらためて報告させていただきたいと思います。

 とりあえず、命日から少し経ってしまいましたが、今日は小野浩の簡単な略歴だけ、紹介させていただきたいと思います。

 「小野 浩」
 明治27〔1894〕.6.29~昭和8〔1933〕.10.21/鹿児島県加茂郡竹原町生まれ。
 早稲田大学英文科を大正6年に卒業。
 「赤い鳥」社に入社、10年以上「赤い鳥」の編集に携わり、また同誌上に「鰐」「かばんをおっかける話」「金のくびかざり」などを発表。
主著に童話集「森の初雪」がある。
 その他「新青年」にブラックウッドの「意外つゞき」などを翻訳した。
 (『新訂作家・小説家人名事典』(日外アソシエーツ/2002.10)ほかより)

 〔追記〕
 小野浩の生誕地を、上に「鹿児島県」と書きましたが、地図で確認しようとしたらば、鹿児島県には加茂郡竹原町はありませんでした。
 これは今年3月ごろの図書館で書き写した手書きメモによって書いたのですが、これは私の書き写しミスのようです。間の抜けた話ですみません。鹿児島県ではなく、「広島県」のようです。ただし、加茂郡竹原町は、現在、「竹原市」になっているようです。そういったことも含めて、あらためて確認しますが、とりあえず、上の記述はそのままにしておきます。

●「1月4日の賢治」  (01/04/2004) 

 妹トシを前年の11月に亡くした賢治は、年が明けるとまた思い立ったように上京し、当時本郷にいた弟清六の下宿を訪れます。
 1923(大12)年1月4日のこととされています。
 童話原稿がつまったトランクを清六の前に差し出し、どこかで発表してもらうように交渉してくれと頼むのです。この時、賢治27歳、清六は18歳です。
 清六はその原稿を、なんと「婦人画報」に持ち込むのです。応対した編集者は、数日後に「これは私の方に向きませんので」と返し、再び東京に立ち寄った賢治はそのトランクを持ってまた雪の花巻に帰っていきます。
 このとき応対した「婦人画報」の編集担当というのが、“小野浩”です。

 当時、清六がどこに下宿していたのか、そして清六が原稿の入ったトランクを下げて訪れた「婦人画報」がどこにあったのか、知りたくて、この話をフォローしてみたのです。が、なにかこの話には無理があるような気がしてならないのです。
 (肝心なこの疑点の内容、公開できるほどのものでもないので、今は指摘するだけにさせてもらって、もう少し調べて後日、あらためて、その機会を持ちたいと思っています。悪しからず。)

 ※ 小野浩の生地は、やはり広島県でした。10/23日記に私の資料写し誤りかと書きましたが、いくつかの辞典類にはやはり「鹿児島県」と誤植?されています。
 ※ ちなみに今年〔2004年〕の4月1日は、宮沢清六さんの生誕100年にあたります。
 

(資料1)
 ……大正十二年の正月に、兄はその大きなトランクを持って、突然本郷辰岡町の私の下宿へ現れた。
 「此の原稿を何かの雑誌社へもって行き、掲載さしてみろやじゃ」と兄は言い、それから二人で上野広小路へ行って、一皿三円のみはからい料理を注文して財布をはたき、さっさと郷里へ引き上げた。
 当時学生の私は、そのトランクを「婦人画報」の東京堂へ持って行き、その応接室へドシッと下し、小野浩という人に「読んでみて下さい」と言って帰ったのだった。
 あの「風の又三郎」や「ビヂテリアン大祭」や「楢ノ木大学士の野宿」などと言う、桁っ外れの作品が、どうして婦人画報の読者たる、淑女諸氏と関係ある筈があろう。
 「これは私の方に向きませんので」と数日後にその人は慇懃に言い、私は悄然とそれを下げて帰ったのだ。
 そいつを思う度毎に、私はあまりの可笑しさに、全く困って了うのだ。
(『兄のトランク』(宮澤清六/筑摩書房/1987.9〔初出1941『創元』3月号〕)

(資料2)
 一月四日 上京。例のトランクいっぱいの原稿も持っていき、弟清六が本郷区竜岡町に学業で滞在中だったから東京堂の婦人画報編集部へもってゆくよういいつけた。その夜きょうだいふたりでレストランへ出かけて会食。何でもいいから見はからってもってこいといったら大皿にさざえの壺やきがきて「これはとられるかな」と笑った。賢治はそれよりトシの分骨を国柱会の妙宗大霊廟に納める手続をとるため静岡県三保にあった国柱会本部まで行った。清六は東京堂婦人画報編集部小野浩にあい原稿を見てもらうことにした。この中には「楢ノ木大学士の野宿」などが入っていたのであるが結果は雑誌に向きませんからと断わられた。やがて賢治がそれを持って十一日帰る。小野浩は、のちに『赤い鳥』の編集者となり、一九二七(昭和二)年六月号(第十八巻六号)の『赤い鳥』に「お人形と写真」という童話などを発表している。なお分骨は春、父と妹シゲが三保へ納める。
(『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史/中公文庫/1991.1)



〔追記〕
 小野浩の続稿は、↓の〔小野浩〕のタグをクリックしてください。

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by kaguragawa | 2012-01-22 19:37 | Trackback | Comments(0)

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