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三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (2)   

 島木健作の本郷での生活は、4年前に治安維持法違反で検挙され仮釈放されて以後のもの――彼の獄中でのいのちを守るための転向声明は、仮釈放をもたらすが、その後の彼の精神を傷つけることになる――である。彼の兄・島崎八郎が本郷通りで古書店を営み、健作はそれを助けるのである。
 この古書店「島崎書院」は、本郷通り赤門前の今の扇屋菓子店のところにあったと思われ、健作はそこから少し離れた《本郷六丁目九番地》の路地に住んだようなのである(1932〔昭和7〕~1935〔昭和10〕)。

 仮釈放状態で肉体的にも精神的にも手負いの健作が身をひそめるように住んだのが、赤門前とはいえ本郷通りから入り込んだ路地だったのです。この地に、三島霜川が身をひそめ雌伏の時を過ごした30年後のことである。

 実際この路地は、100年前どのような状態だったのか。
 “長屋と申しても「最も劣等」なる種類”と書き出して、霜川の山風宛ての手紙はこの路地の実態を伝えています。貴重な記録です。

 “生は本日を以て長屋居住を決行致し申し候。長屋と申しても最も劣等なる種類にこれ有り。其は鮫が橋に見られる穢屋(あいおく)にござ候。屋賃は一個は七十五銭、一個はより上等にて八十五銭、都合二軒にて合計一円六十銭、いかに廉価に候わずや。一個は家族住む。一個は生が書斎にござ候。其れは屋根裏を見て天床を見ず、一棟都合六軒いわゆる九尺二間の屋台骨にござ候。昨日まで新聞記者として且つ文士として門戸を張りし生は、今や俄然車夫、土方の仲間入りをなし彼等と城壁なく談ずるの光栄ある身分と相成り申し候。”

 余談ですが、霜川のこの1901(明34)年の記述は、その2年前に公刊された同郷人・横山源之助の『日本の下層社会』をほうふつとさせる、というより横山のこの報告を下敷きにした筆致である。横山源之助は、「四谷鮫ケ橋」を東京の三大貧民窟の筆頭として挙げ、「車夫」を人足・日雇稼ぎに次ぐ下層民の代表的な職業だと書いています。

 《一棟都合六軒いわゆる九尺二間》の長屋の参考図は下記のようなものです。

三島霜川の《本郷六丁目九番地 奥長屋》 (2)_e0178600_013677.gif


 霜川が住み、健作が暮らしたこの赤門前の路地は、本郷通りを表通り(この図では右側)とする「袋小路の奥長屋」ですが、九尺二間(くしゃくにけん)の1戸が6軒で1棟の長屋となり、この棟がさらに奥に連なる形になっていますが、路地入り口に共同井戸があることもこの図に近いものだったと思われるのです。
 そしてこの共同井戸がいまだに手押しポンプとして残り利用されているのです。

 この奥長屋での霜川を、もう少し追ってみたいと思う。

by kaguragawa | 2011-09-22 00:30 | Trackback | Comments(0)

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